「愛」って簡単に言うけどさ…

聖書を学んでいると、「愛」という言葉をよく目にするし、

「隣人を愛せよ」と教えられるのだが…

 

実際に「愛」を実践するって難しいと感じた。

 

その出来事を話したいと思う。

 

 

先日の夜、友人2人と一緒に車で帰宅していたら、

道端で倒れている女性を見つけた。

 

いったん車を停止して、3人でどうするか話し合った。

 

酔っぱらいが寝ているだけの可能性もあるが、

今は恐らく”例の注射”が原因で、突然倒れる人も多いと聞くし、

もし若い女性だったなら、輩に狙われないか心配ということもあるし、

いったん引き返してみることにした。

 

実際にその女性に近づいてみたところ、寝ていたのは酔っぱらいで、

年齢は50代くらいのおばさまだった。

 

幸い、歩道と車道とで段差がある場所だったが、

寝ていたのが道の車道側、段差の縁でありかなり危険であるため、

友人の一人がおばさまの両脇を抱えて、

なんとか車道と反対側にある段差に移動させようとしていた。

 

しかし、このおばさん、どうやら道が好きらしく、

すぐに車道側に戻ってしまう。

 

 

ごめん…漫画なので表現は少し誇張したけれど(笑)

 

いずれにせよ、我々はこの…道大好きおばさんに閉口していたのだ。

 

しかも、彼女が寝ていたのはちょうどバス停の場所だったため、

途中でバスが来たときに、バスの運転手さんがマイク越しにすごい剣幕で叫んでいた。

 

「大丈夫ですかーーーー!!??警察呼びますかーーーー!!??」

 

当然だよな、万が一轢いてしまったら嫌だし。

ちなみに警察は既にもう一人の友人が呼んでいて、それを待っているところだったが、

到着までになんだか妙に長く感じられたのだ。

 

数分後、やっとのことでパトカーが到着したので、

あとはお巡りさんにお任せして、我々3人はその場を立ち去ったのである。

 

 

 

…後日、集会でその出来事の話題になったのだが、

僕コリュの友人二人は僕の行動に対して…

 

「ボーーーーっと突っ立ってた。」

と言われた。

 

しかも、警察を呼んだ方は、

「警察に電話したときに女性の年齢を聞かれたので、

コリュに聞いたけど、答えてくれなかった。」

とのこと。

 

えぇ〜〜〜〜〜〜っ!!??

 

確かに、暗くてなかなか見えないから返事は遅れてしまったけど、

ちゃんと「50代くらい」って伝えたのに………。

 

冗談交じりの会話ではあったが、なんだかショックだった。

 

おばさまを助けた時は、時間帯としては22時代だったので、

人の通りもそこまで多くはないとはいえ、それなりにあるし、

自転車だって通るため、人が来ないか注意はしていたのだ。

もちろん、おばさまが車道に落ちないようにも気を配っていた。

 

僕は僕なりに「愛」を体現していたのだが、通じてなかったのか…。

 

僕はパワハラ企業だと「考えて動け」と真っ先に言われてしまうタイプだろう。

(というか、何回か言われたことある笑)

 

実際、僕は元々、仕事でも人助けでも、よほど緊急的な状況でない限り、

いったん傍観して、全体を把握してからでないと行動できないタイプなので、

周囲からはマイペースな奴に見えるかもしれない。

 

まぁ実際にその人が病気や怪我で倒れていたら、もう少し必死になるかもしれないが。

 

↑「善きサマリア人」フィンセント・ファン・ゴッホ

 

さて、道端で困っている人を助ける描写であるが、

聖書にはあの有名な「善きサマリア人」の話がある。

 

長くなるので引用は割愛するが、この教えからは

 

実際に、困っている人が目の前にいた時に、無条件でその人を助けられるか?

隣人愛を実践できるかどうか?

 

というのが、僕たちにとっての課題となる。

 

この教えから自分の行動を反省すると、

僕自身は「何か嫌なことでもあったのだろうか…」と、

僕なりに女性の心情に寄り添うことはしたのだけれど、

「何もしてない」と友人たちから言われたあたり、

その想いが伝わっていなかった可能性が高い。

 

実際に警察呼んだり、安全な場所まで引っ張ったり、

その人に何かしら声をかけたりしないと、

「愛を実践した」とは言えないのだろうか?

 

 

「愛」とは、実に奥が深い。

 

不慮の事故や災害などが起きたときに、自らを顧みずにその場所まで赴き、

人を助けることが出来る人…

その動機が虚栄心や偽善ではなく、心からの愛からくるものであれば、

確かにそれは崇高な愛である。

 

しかし、その人たちの無事を祈り、慈しみの心を抱いているのもまた「愛」ではないか?

 

もちろん、自分に出来ることをすれば良いとは思うのだが、

「愛せよ」と簡単に言うけれど、

「愛」がその人に伝わるかどうかまで考えると、

「愛を実践したかどうか」…その定義もまた難しい。

 

また、自分では良かれと思ったことが、かえって裏目に出ることもあるかもしれない。

 

そんな時は、傷つけたことに関しては謝ったほうが良いかもしれないが、

そもそも悪気がなかったのなら、「その人は嫌だったんだな」とでも思って、

あまり気にしないのが一番だろう。

 

「無条件の愛」が、それを受け取らない相手に対する「憎しみ」に変わってはいけない。

 

また、今回のおばさまみたいに、恐らく何か悲しいことがあって荒れている人がいれば、

僕は特に何か慰めるわけでなくても、そばに居てあげることは出来るだろう。

それもまた「愛」なのではないか?

 

何かしてほしいことがあれば、言ってくれれば出来るだけ答えたいと思うし、

可能であれば、HSPお得意の心配りで本人の心を察して、

その人が欲しがっている言葉をかけてあげる…それも「愛」だろう。

 

 

こうして色々考えてみると…

 

「愛」を実践するってなかなか難しい。

 

でも、神様はこうして、抜き打ちで課題を投げかけてくれる。

 

今回の場合は3人で役割を決めて連携が取れていたら、

具体的にやるべきことがハッキリしたのかもな。

 

神様が僕に対してどう思われたかはわからないが…

 

「お前、酔っ払いだからって手を抜いただろ。」

「次はもう少しわかりやすい形で”愛”を示せたらいいね。」

 

ということであれば、もうちょっと頑張りたいなとは思う。

 

 

※ちなみに、一番上のイラストの元ネタ↓

 

↑ポプテピピック SEASON FIVE/大川ぶくぶ
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