既存の「ルール」や「伝統」を疑う生き方

社会のルール、会社の規則、校則…

 

僕たちはありとあらゆる常識やルールに囲まれて生きてきた。
今も、そしてこれからも社会で生きていく上でそれらのルールから逃げることはできないだろう。

 

その前に、何故ルールや規則が存在するのだろう?

 

それはそのルールを守っていることで節度が守られる云々というのももちろんあるけれど、

「ルールを守り続けていく必要性が果たしてあるのか」

という疑いの姿勢と疑問は常に持っていた方が良い。

 

そして仮にそのルールを守るとしても、

「その団体や組織に属する上で現在の自分や周囲の人を守るために
とりあえずその考え(ルール)を取り入れる」

という感覚で守る方が良いだろう。

 

そうすることで、いざそのルールがなくなってしまったとしても、
パニックにならなくて済むのだ。

 

というのも、例え心のなかでは嫌だ、面倒だと思っていても、
皆「ルール」というものがあることで自分自身の心の安定が保たれているんだよね。

 

「ルール」がないと無法地帯にもなる可能性だってあるし、それはそれでカオスだなと。
皆が不愉快に感じることを平気でするような人も出てきちゃうしね。
それだったら「ルール」があったほうが安心でしょ?

 

 

日常生活で欠かせない習慣で例えると、

仮に「明日から歯磨きするな!」って言われたら皆絶対嫌なはず。

 

歯磨きしない生活に慣れるためにもしばらくの間は時間が必要になるしね。

 

…これは極端な例かもしれない。

他にも昔から当たり前に行われていることとか、
伝統的なものとか色々あるかと思うけど、

当たり前になりすぎていて一切の疑問を感じないとか、
「なんとなく」その伝統やルールを引き継いでしまっているとか、
そんなケースも多々あるだろう。

 

かなり乱暴なことを言ってしまえば…

 

自分にとって存在意義が理解できない伝統なんて捨ててしまって構わないし、

無理に参加する必要性もない。

 

僕だってバレンタインデーやホワイトデーといった行事が嫌いだと常々言っている。

 

もちろんこういったイベントに参加するしないは個人の自由だし、

強制されるものではないだろう。

 

LGBTの子であれば、
こどもの日や桃の節句に雛人形や五月人形を飾るなどしない…
そんな選択肢も当然あって良いと思うし、
それは祝われる本人の気持ちが最優先されるべきなのだ。

 

でも実質何かしらのグループや団体に属していることで、
嫌なものでもほぼ半強制的に参加させられることもあるだろう。

 

以下の記事でも少し話しているが、
清明(沖縄の行事)でお墓を掃除するのが嫌と話す人がいた。

 

 

僕は本土の妖怪だから異なる地域の文化に対して偉そうなことは言えないが、

子供達にそういう感情が生まれてしまうのは明らかに大人の責任である。

何故そういうことをするのか…
子供に納得してもらえるようにきちんと説明できていないのだろう。

 

 

別に先祖を敬うような伝統がダメだということでは一切なくて、
思考停止してしまう、自分で考えない、
自分や相手の意思を尊重しないことがいけないことだと思うんだ。

 

「なんとなく」皆が同じことをしているから、自分も同じことをする。

 

それが当たり前のことになってしまうと、
「世間一般の価値観」で自分という人格が塗り固められてしまうし、
自分がどのような考えでどのような生き方がしたいのかが
わからなくなってしまう恐れがある。

 

もちろん、心から「楽しい!」「続けていきたい」と思えるものであれば、
条件なしに続けていくことはむしろ良いと思う。

 

しかし、一方的に決められたルールなんて
場合によっては破っても差し支えないことだってあるだろうし、
心底納得していなければ、表面だけ守っているように見せかけるのもよくある光景だ。

 

つまり先生の前では良い子ぶっているのに、
禁止されているお菓子を授業中に隠れて食べている…みたいな光景などだ。

 

天海夜 煌琉さん(@koryu_aminumiya)がシェアした投稿

まぁお菓子を隠れて食べるという行為自体の善悪は置いといて、
なぜ授業中にお菓子を食べてはいけないのかという疑問が生じるのも無理はないし、
つまらない授業を少しでも楽しく快適に過ごしたいというのは誰だってあるだろう。

 

僕だってお菓子は持ち込まなかったにしても、
真面目に先生の話を聞いているように見せかけて、
頭の中では全く違うこと考えてたこともしょっちゅうあったしね。

 

とにかく、既存のルールや伝統と付き合っていくには

・提示されているものを絶対視しないようにする
・とりあえず今の自分を守るためにあるものと認識する
・場合によっては逃げても良いし、許される範囲なら破っても構わない

という感覚でよいかと思う。

 

世間一般で当たり前となっていることも自分はやらない、というのもアリだ。

 

例えば僕は別に死んでもお墓に入らなくて良いかな〜なんて思っているし、
今後仮に結婚したとしても結婚式なんて行わなくて良いと思っている。
(パートナーが「どうしてもやりたい」と懇願するならば考えるかもしれないが)

 

理由はというと、特に意味を感じないからだ。
家族に負担を強いるようなこともしたくないしね。
周囲の人が当たり前にやっていることも、
やらなくて良いことであれば別にやらなくても良いと思う。
生き方や選択なんて人それぞれだし、誰かが強制するようなものではない。

 

今自分がすがりついているもの…
それは本当は不要な物だったりお金だったり、
色々あるかもしれない。

 

 

それらを一度手放してみてはどうだろう。

 

 

僕は、今の自分って本当に何もないなって思う。

でも何もないからこそ気楽なんだよね。

 

 

もしこれが影響力の強い立場の人間になったらどうなるか…。

Twitterなんてあまりにもフォロワー数が多いと自由度が下がるというか、
発言にも制限が出てくるでしょ?

 

別に何を言われても全く気にならなければ良いけれど、

何気ない発言が誤解や波紋を生み出してしまうことだってあるから難しいんだよね。

 

 

お金のことで言えば、

僕自身はかつて貯金がたくさんあった時がある。

 

今はほとんどない(笑)

 

でも自分よりも将来への不安感は少なくなっているし、
むしろ開き直ってさえいる。

 

当時は高校生で働くことに対する恐怖や不安があって蓄えを持っていたのだが、

今は学校よりもむしろ働くほうが楽だし

かつての地獄と比べればだいぶマシとさえ思ってるくらいだ。

 

これで完全に仕事をやめてしまえば、また違った世界が開けてくるのかもしれない。

 

それに向けて今出来ることを徐々にしていければと思う。

 

 

自分が所有しているもの
知らず知らずのうちにすがりついているもの
当たり前になっていること
何気なくやってしまっていること

 

 

まずは一つ一つ疑ってみよう。

 

 

もしかしたらそこから本当の自分の気持ちを見出だせるかもしれないし、
自分が本当に希望する生き方を実現できたら
今よりも少しだけ楽になれるかもね。

 

アンチ・アンハッピーバレンタイン

世間はバレンタインデーだったんですかね。(他人事)

 

 

 

僕は昔からこの日が大っ嫌いでした。

 

なぜ女に生まれたばかりに男家族にチョコをあげなくてはいけないのか。
しかも俺男なんだけど。

 

というわけで、基本的に無関心でした。

 

しかし、これはLGBTとかGIDとかセクシャルマイノリティに限った話じゃない。

 

ゴディバの広告が話題になっていたけど、
本当にその通りで、
女性の皆さんはあまり無理しなくて良いと思います。

 

 

もともと人にプレゼントをするのが大好き!という人や
お菓子作りが趣味で皆に配りたい!という人じゃない限り
やっていて楽しくないこと、義務感でやっていることは
一切やらなくて良いと思うんだ。

 

女子社員一同で男子社員に義理チョコをあげようみたいな
企画をする会社もあるかもしれないけど、
強制的参加にしたらそれこそストレスになる人もいる。

 

どうかサイレントマジョリティの声に耳を傾けて欲しい。

 

伝統や風習も、思考停止の状態で続けるんじゃなくて、
皆が必要ないと感じたらその行事をやらないというのも全然ありだと思うし。

 

家族とか、恋人とか、友人とか
本当に大切に思っている人だけに
個人的にプレゼントしてあげたほうが良いのではないだろうか。

 

その方が相手にとっても嬉しいだろうし。

 

そして何よりも…

 

「自分が楽しいかがどうか」が一番大切だから。

 

 

 

上の写真は数年前、大学院の卒業制作を終えた同期のお祝いパーティをした時に頼んだケーキ。
メッセージが修造であることにパティシエの方は何を思いながら作ったのだろう…
そんな風に考えるのが実は一番楽しかった(笑)