相手が自分の領域を犯してきたら戦争しろ!

「戦争」なんてなんだか物騒な言葉を使ってしまったけど、

まぁタイトルのとおりだね。

 

 

ただ僕は、国家間や宗教間などの「戦争」について語りたいわけじゃないから

それを目当てに来てしまった人はブラウザをそっと閉じていただきたい。

 

 

僕が話したい「戦争」というのは

 

「自分を守るための戦争」

「人と健全な関係性を築くための戦争」

 

である。

 

コミュニケーションにおける戦争…

まぁ言ってみれば「喧嘩」や「口論」「自己主張」だね。

 

 

それを踏まえて、

 

「相手と戦争(バトル)して自分の領域を守ること」

 

の重要性について語っていきたい。

 

 

 

先日、とある会社のセールスの人が家に訪れた。

 

恐らく日本中でも大半の人が迷惑しているであろう

あの企業の訪問員だ。

 

 

その人はなぜかアパートの事情を知っていて、

一方的にこちらの事情を決めつけてきた。

 

僕は直感で「こいつは悪質なやつだ」と判断した。

 

 

出かける間際だったし

「急いでいるのですが。」

「さっきも言ったように…。」

とあれこれ説明しても信じるどころか全く聞き入れてくれない。

 

 

それどころか、

相手も「絶対に契約させる」勢いだったのか

何回も何回も同じことを聞いてくるのだ。

 

 

あまりにしつこいから最終的に

「だから言ったでしょ!?」

とキレて無理やり振り払うかのように相手を追い返した。

 

 

とりあえず申し込み用紙だけもらっておけば

相手も納得するだろうと思い、それは妥協したが。

(もちろん申し込むつもりはない。)

 

 

このように無礼な相手、

こちらの「人としての権利」を無視してくる相手、

自分の縄張りを犯そうとしてくる相手etc…には

僕は非常に厳しい態度をとる。

 

 

自分の「領域」を犯そうとしてくるから当然のことだ。

 

 

ちなみに「領域」とは国のように

自分の縄張りのようなものと思ってくれて良い。

 

 

それでもピンとこなければ

こちら↓でも軽く説明しているので参考にしてほしい。

 

 

 

…しかし…

こういう「赤の他人に自分の領域を侵される」経験は

きっと多くの人にあるはずだ。

 

 

 

例えば子供の頃を思い出してほしい。

 

 

親など大人たちから指図や命令をされたことはないだろうか?

 

 

「宿題しなさい」

「部屋を片付けなさい」

「あれやりなさい」

「これやりなさい」

 

 

まぁこんな細かいこといちいち言われてばっかりじゃ

 

 

「うるせーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」

「じぶんでやるわーーーーーー!!!!!!!!!!!」

 

 

ってキレたくもなるよね(笑)。

 

 

でも、従わないと怒られる、叩かれるなどされた人もいるはず。

 

 

そのたびに、相手に対して反発心を抱いてしまう。

 

反抗期では荒れてた人も多いんじゃないかな。

 

今リアルタイムで荒れてる人もいるかもしれないね。

 

 

それはまだ良い。

嵐はいずれ治まるときが来るだろうから。

 

 

問題なのは

「これが出来ない自分はダメなんだ」と

自分自身を否定するようになって、

 

大人になった今でもその呪縛から逃れられず

苦しんでいる人も少なくないはずだ。

 

 

親だけでなく、上司や先輩からも似たようなことをされている人もいるだろうね。

 

 

逆に、人をまとめる立場にある人なら、

人に対してそのようなことをしてしまう人もいるだろう。

 

 

こういった

「相手に対して指図をしてしまう」

もしくは

「相手の言うことに嫌々従ってしまう」

 

それは

「相手の領域を犯す」

もしくは

「相手が自分の領域に入るのを許してしまう」

ということにもなる。

 

 

 

「自分らしい生き方」をする上でも、

「相手との依存的ではない健全な関係性を築く」上でも

全く良いことではない。

 

 

 

 

 

それなのにも関わらず、

「本当はこういう事情があるのに…」

といった気持を言葉にできず

逆らえない人は多いだろう。

 

 

しかし、自分の気持ちを押し殺して人の言うことを聞いてばかりいると

全て相手の基準で物事を考えるようになってしまい、

自分の気持がわからなくなってくる。

 

 

「自分はどう考えているのか」

「自分にとって何が嫌なのか」

「自分は何を望んでいるのか」

 

 

こういった「自分の気持ち」がわからなくなってくると

相手が全ての判断基準になってしまい、

常に相手の顔色を伺うようになり

自分らしく自然体に振る舞うことができなくなる。

 

 

「自分の軸」ではなく「他人の軸」で物事を考えてしまうからだ。

 

 

※「自分の軸」「他人の軸」についてはこちら↓を参考にしてほしい。

 

 

「他人の軸」つまり「他者の気持ち優先」で物事を考えると、

自分が何をするにも相手が優先になる「共依存の関係性」になってしまう。

 

 

いつまでも子離れできない過保護な親とか。

DV彼氏と別れられない彼女とか。

 

 

「この子がいなきゃ…」

「この人がいなきゃ…」

と常に自分がいなきゃいけないと思う込んでいる状態のことだ。

 

 

そうしたことを続けていくと、あなた自身も被害妄想にとらわれやすくなる。

 

 

こうした共依存は、

「相手の存在」で「自分自身の存在意義」が保たれているからである。

 

 

いざその関係性がなくなり

(恋人と別れる、親なら子供が勝手にどこかへ行ってしまうなど)、

あなたにとって不都合な状況(破産や病気など)が訪れた時に

 

 

「あの人のせいだ」

「あいつが悪い」

「あの子が〇〇してくれない」

 

という考えに陥りやすいからである。

 

 

これは人を恨んでばかりの人生だ。

 

そんな人生を送るようになってしまうと、

怒りや悲しみのエネルギーを湧き上がらせたまま毎日を過ごすことになり、

あなたが幸せに生きられなくなる。

 

 

なので、今すぐにそれを断ち切ろう。

 

 

「革命」の始まりだ。

 

 

DV彼氏(彼女)を持った恋人は

今すぐに同棲しているアパートから出ていくべきだし、

 

 

子供に干渉してしまう親は

「子供が幸せなら何をしていても構わない」と

良い意味で子供に対して「無関心」になる必要がある。

 

 

逆もあるよね。

 

 

親のことを「鬱陶しい」と思うのなら、

今すぐにでも一人暮らし出来るアパートを見つけよう。

連絡はたまに行えば十分だし、

なんなら海外まで行ってしまっても構わない。

 

 

僕だって一人になりたくて、

ほぼ海外みたい沖縄を選んだんだから。

 

 

「革命」の後には「戦争」が起こる。

 

 

もしそれでも相手が自分に依存してくるのであれば、

「戦争(バトル)」をしよう。

 

 

↑お前こそ口悪すぎだから自重しろ

 

 

自分が思っていることを相手にぶつける。

 

 

僕もそうだが、日本人には口論が苦手な人は多い。

 

怖いかもしれない。

面倒なことになるかもしれない。

 

 

でもね、

「自分の気持を吐き出すこと」は

自分のためでもあり、

相手のためでもあるのだ。

 

 

少しでもあなたを思いやってくれる人なら自分自身で考えるだろうし、

その人自身が自立して人生が良い方向に向かっていくかもしれない。

 

 

逆に、依存的な考えが抜けない人はいつまでも同じことを繰り返すし、

別の「依存させてくれる人」のところへ去っていくかもわからない。

 

 

でも、それは全て「相手の責任」なんだから、

あなたが心配して気にする必要なんてないんだよ。

 

 

少なくともあなたの「思い」を外にだすことで、

相手が成長する可能性を与えることになる。

 

自分の中で悶々としたままでは

その可能性すら0になるんだ。

 

だから、「言葉にする」ことは大切なことなんだよ。

 

 

それでも相手が

 

「あなたに対して過剰な期待をしてくる」

「あなたに対して依存心を抱いている」

「言うことを聞かせようと支配的な態度を取ってくる」

 

 

その状態であなたのところへまた来ようものなら、

完全にスルーして良い。

 

 

もしくは自分の考えをぶつけて、毅然とした態度で追い払えば良い。

しつこいセールスマンに対処するかのように。

 

 

 

「相手と戦争」をすること…

つまり、あなたが自分の考えを主張することは、

少なくともその人にとっては「意味があること」に繋がるはずだ。

 

 

もしそれで

「相手が怒る」「他の人からも責められる」

などの不都合なことが起きてしまっても、

それは放っておいて構わない。

 

 

厳密に言うと、

「受け取り方は人それぞれなのだから、徹底的に相手に任せる」

ということだ。

 

 

 

あなたに覚えていてほしいのが、

「相手が相手自身で考えて処理をするべき課題や問題」は

確実に「相手の領域」

なんだよね。

 

 

少なくても「あなたの領域」ではないはずだ。

 

つまり、あなたが相手の問題を解決する義務はないということ。

相手の問題なのだから。

 

あなたが相手を思い通りにさせたい、

相手に言うことをきかせたいと思い、

相手の「領域」に無理やり入り込んでいくのであれば

相手に反発されても仕方がないだろう。

 

相手だって相手の「領域」を守る権利があるんだから。

 

逆に言えば、

相手が自分の領域に無理やり入っていくのであれば

反発しても良いし、自分の言いたいことを言って構わない。

あまりにも執拗な行為をするのであれば逃げてしまって構わないし、

他の人に助けを求めるのもアリだ。

 

 

…てなわけでまとめると、

 

 

人に振り回されてばかりで疲れている人が

「人の顔色を伺わず、自分の気持ちを最も優先できる生き方」

ができるようになるには

 

 

「相手と自分との問題を明確に区別し、

必要以上に干渉してくる相手には毅然とした態度をとること。

もしくは必要以上に相手に干渉せずに突き放すこと。」

 

 

こういったことが大切なのだ。

 

 

「自分のことは自分で決める」

「相手のことは相手が決める」

 

それを前提にある程度の距離を置いた関係を築くこと。

 

 

それが本当の意味で

「お互いを信頼し、尊重できる」

自立した大人同士の理想の関係だと思うな。

負の感情も他人の攻撃も気にならなくなる魔法の言葉

最近はついイラッとしてしまう自分に目を向けて
これはいけないと思い、いろいろ対処するようにしている。

 

その場合は一旦冷静になってこう思うことにしている。

 

「自分はまだ自分の問題が解決できていない。」

 

この言葉の意味は明白で、自分自身がまだ未熟だから
他人の言動によって自分の感情が左右されるというもの。
怒りや悲しみなどの「負の感情」が湧き上がってきてしまうのだ。

そうならないように日々学んで成長していきたいよね。

 

一方で、自分の周囲において嫌な言動をする人は最近では少なくなったけど、
街中だとどうしても赤の他人と関わることになるわけだし
理不尽な思いをするケースだってあるわけだ。

 

相手の悪意ある言動の被害を受けてしまうことだってあるだろう。

 

 

その場合も同様に、

 

「相手はまだ相手の問題が解決できてない。」

 

と思えば良い。

 

 

自分自身で湧き上がらせている負の感情も
相手からの悪意ある理不尽な言動も
自分の成長のチャンスになるわけだ。

 

そう考えると、傷つくことや不快な気持ちになることを
過剰に恐れずに済むのでは?と思う。

 

人は本来、人を傷つけることなんて出来ない。

 

ナイフなど物理的に人を傷つけることは出来るし、
実際刺されたら怪我するし下手したら死ぬし
刺した人は逮捕されるわけだが…

 

一方で、悪口や非難、その他罵詈雑言など負の要素を含む
「言葉のナイフ」というものは…

 

「避けられる」

「ガードできる」

「刺さってもすぐに傷口を消せる」

 

などという選択肢だって存在するわけだ。

 

考えてみたらいくらでも自分でどうにかできるんだから、
実際に刺されるよりかはマシだよね。

 

 

ナイフに催眠術かけようとしたけどダメだった…。
 

 

つまり、他者からの物理的でない、「精神的な暴力」に関しては
自分自身で「なかったことにできる」のだ。

 

こうなると
「言葉のナイフを刺した奴を養護するのか」
と思われそうだが、そうではない。

 

自分の人生を楽しく生きるか、自分らしく生きるかどうかについて、

「自分の人生は自分で決めるもの。」

という考えがある。

 

 

「相手が暴力的な言動をした」という事実はあったとして、
それを実際罪に問うべきものなのかどうかはとりあえず置いておいて、

嫌な出来事に対して自分をどんな人物像に仕立て上げるかは、
他の誰でもない、自分の人生に対する責任なのだ。

 

 

仮に「救世主」があなたの元に現れて心の傷を癒やしてくれたとしても、
あなたの生き方や考え方について変えることが出来るのは、
他の人じゃできないからね。

 

 

救世主がいないと生きられない、弱々しい「村人A」として生きるのか、
世の中や特定の人物に対する恨みつらみが消えずに、「悪の化身」と化して世界を闇に葬るのか、
救世主のおかげで自分は助かった、じゃあ今度は自分が人々を助けようと
「ヒーロー(ヒロイン)」のようなカリスマ的存在として生きるのか

 

…などなど

 

全てあなたが自由に生き方を決められるのだ。

 

 

もしあなたが「傷つかない」という選択肢をとれるようになりたいというのであれば、
心を鍛えていく必要がある。

 

 

筋肉はジムや日々のトレーニングで鍛えられるが
「心を鍛える」というのはジム通いじゃできない。

 

 

ではどうすればよいのかというと、

 

「少しでも多くの言葉や価値観、物の見方を知っておく。」

 

必要がある。

 

 

ちょっとしたことでも傷つく人もいれば、
何を言っても無反応な人がいるように、
一つの物事にしてもいろんな解釈と反応、考え方があるわけだ。

 

だったらできるだけ反応しないほうが良い。

 

その方が精神衛生上自分が楽になるのである。

 

そのためには

相手を「人間ではない、一つの現象」

みたいにバッサリ捉えてしまうというのもアリだ。

 

 

 

こちらの書籍でわかったことだが…

 

自分がマイナスの感情を放つから
失敗して怒られた時にも相手の感情を逆なでさせて
ますます怒られてしまうことになるのだ。

 

それに自分が影響を受けて病んでしまうのでは
自分自身が一番苦しくなるだけ。

 

先に自分で反省して自分の中で解決してしまえば、
あとは怒られても平謝りしておけば良いだけ。
相手も平然な人には反応しないからそれ以上怒られることはない。

 

「失敗しちゃいけない」
「ちゃんとやらなきゃ」
と萎縮したり緊張したりしてまた失敗してしまう、
また怒られるということも避けられる。

 

(↑引用するのが面倒だから僕自身の言葉で書いてるけど、
書籍のほうが素敵な文章なので、気になる方はぜひ書籍を読んでいただきたい。)

 

 

相手からの一方的な価値観の押しつけ、
相手からの理不尽かつ暴力的な言動、
相手のミスや勘違いなのに自分が怒られた、

 

…などというのであれば
なおさら「反応しない」ことが必要になる。

 

 

だから、この言葉が意味をなすのだ。

 

「相手はまだ相手の問題が解決できていない。」

 

あなたが自分の感情を自分でコントロールできるのと同じように、
相手が負の感情を生み出すのかどうかも相手が決めることである。

 

それが出来てないということは相手の課題でもあるし、
本来、あなたには関係ないのだ。

 

 

それを受け取ってしまうと、
「相手の課題」を「自分の課題」にしてしまうことになる。

 

 

僕も正直な性格だから
嫌いな人間には基本塩対応だったり、
明らか避けてるの(苦手に思っているの)見え見えだったり
悪気なくても誤解されるような言動もしてしまったりしたから
過去の人間関係においてトラブルも多かった。

 

 

まぁやたら協調性やルール、一方的な価値観を押し付ける日本社会が異常なだけであって
トラブルが全く無いという人の方がむしろいないのかもしれないが、
相手を刺激させない程度のスルー力は身に付けたいし、
つまらない衝突は避けていつでものらりくらり生きていたいよね。

 

そのためには「自分」と「相手」の境界を
明確にしておかないとね。

 

 

「相手の問題と自分の問題を切り分けて考える」

 

このことについても今後深掘りして詳しく説明できたらと思う。

 

 

以前購入したこの本もまた読み返してみようかな。

 

 

 

 

のらりくらりと。

(↑最近、気に入ってる言葉らしい。)

心のバランスを保つには「ヒガメンタル」を意識しよう

さっそく本題に入るが、タイトルにもあるように心のバランスを保って

人生をより楽しく穏やかな気持ちで生きていくには

「ヒガ」を意識する!!!!ことが大切。

 

 

「ヒガ」というと僕の場合、まず先に思いつくのは「比嘉さん」だね。

 

沖縄に多い名字として知られていて、
沖縄だと職場のチームや学校のクラスに1人…いや下手すりゃ5人以上はいるんじゃないかと思われるくらい、
沖縄じゃかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜りポピュラーな名字だ。

 

 

でもその「ヒガ」じゃないんだよなー。

 

 

僕が言っている「ヒガ」というのは

「彼我(ヒガ)」のことだ。

 

 

つまり、彼(相手、You)と我(自分、Me)という意味だ。

 

 

自分の心の状態が

 

①「彼(相手、You)」が優位な状態なのか

 

それとも

 

②「我(自分、Me)」が優位な状態なのか

 

それとも

 

③「彼」と「我」が両方共バランス良く保たれている状態なのか

 

…ということだ。

 

 

理想なのは紛れもなく

 

③両方共バランス良く保たれている状態なのか

 

だ。

 

つまり「彼」と「我」、どちらにも偏りすぎず釣り合っている状態のことだ。

 

 

そう、この状態!これが理想なんだ。

 

 

これを今日から「彼我(ヒガ)メンタル」と呼ぶことにしよう。

 

この青いやつ(彼)と赤いやつ(我)がどちらかに偏りすぎていると、
あらゆる面で生きづらさを感じてしまうだろう。

 

 

ではこの比嘉さん…じゃなかった
「彼我」を意識するにはどうすればよいのか。

 

 

 

 

上図のように今ちょっと自分本位になりすぎていると言うか、
「我」が強いなぁと感じたら
これは①「我(ガ)メンタル」になっている証拠。
少し抑えて周囲のことを気にするように心がける。

 

 

逆に、人のことを気にしすぎて自分の気持ちが疎かになっていたら
相手を優先しすぎている状態。
②「彼(ヒ)メンタル」になっている証拠。
自分の欲求を聞くように意識しよう。

 

 

人間はあらゆる欲求でできている生き物だからエゴなしでは生きていけないし
他者の言う事ばかり聞いているようじゃ自分の人生を生きていけない。

 

要するに、「彼」だけでもダメだし「我」だけでもダメだってこと。

どちらかが強すぎるとどちらにせよ自分を苦しめることになるのだ。

 

だからとにかくバランス、バランスが大事なんだ。

 

 

「我メンタル」でもなく

「彼メンタル」でもなく

「彼我(ヒガ)メンタル」

 

 

そう、この「彼我メンタル」…これが理想の境地なんだ。

 

 

それは神のように神々しいのだ。

 

 

というわけで(?)神々しさを表現するべく背景を黄色にしてみた。

 

 

ホラ見て、背景を黄色にしただけでなんかちょっと気持ちが明るくなったでしょ?

 

 

でも実際バランスが保たれているとこれくらい心の状態が安定するはずなんだ。

 

常にこの「彼我メンタル」の状態になれるように自分と会話をするようにしよう。

 

 

「あ、今ちょっと自己中心的だな。もっと人の気持ちに敏感になろう。」

「あ、今なんか人の顔色伺いすぎているな。もっと気楽になろう。」

 

 

という感じで。

 

それでも怒りが湧いてきたり不安を強く感じたりしているようであれば

上の図を思い出してみて。

 

 

無理しない程度で良いので、

自分の感情を客観的に見つめるようにしていこう。

 

 

逆にこの「彼我」を意識しすぎて
「ヒガ」のことばっかり考えてしまって
「比嘉さん」にうっかり恋心を抱いてしまうことように注意しよう。

 

 

ま、たまにはそんな恋愛も良いけどね!!!!

 

 

(なんだこの結論)

誉めないめげないコミュニケーション

僕は全くと言っていいほど人を誉めない。

 

厳密に言うと、人の良いところを言ったとしても、「誉めている」感覚がない。

 

確かに、相手の良いところを相手に伝えて喜んでもらえるなら、
その行為自体は好きだ。

 

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しかしそれは「相手の一面」「そこから自分が考えたこと」という事実を
相手に伝えているだけなのである。

 

意見や考え方の相違はあるかもしれないが、
それを伝えることで、新しい価値観や新しい一面が生まれるかもしれないしね。

 

それから、最近では苦手な人でも良い部分がないか探すようにしている。

 

厳密に言うと、相手のことを少しでも理解したいというか、
その人の人間性をできるだけ多く把握して分析をしたい。

 

…といった気持ちが強いのかもしれない。

 

こういった一連の研究をしていくことで、自分にとって新しい発見があるし、
ネタ作りの参考になるからだ。

クリエイターの性だよね(汗)。

 

いや、その人が有している人間性には、もしかしたら「良い」も「悪い」もないのかもしれない。

というのも、以前のブログでも言及をしているが、全ての物事に意味付けをしているのは自分だから。

 

 

特に人間の長所と短所なんて紙一重なわけだし、
自分の都合の良いように「ここは良い」「ここは悪い」と判断するのも
なんだか失礼な気がするのだ。

 

好き、嫌いで判断するなら個人的な好みの問題だから良いけどね。

 

人間的にどうしても好きになれない人物なら、
できるだけ関わらない、離れればよいだけのことだし。

 

自分が今関わっている人がどんなキャラクターで、
どんなことに喜びを見出し、
逆にどんなことに弱いのか(怒るのか)は、
よく見るようにはしているかな。

 

さて、話を「誉めること」に戻すと…

 

以前、「嫌われる勇気」を読んだ時に、
人を誉めることが必ずしも良いこととされないことを知った。

 

 

確かに誉めるという行為自体、
どことなく人を下に見ているような印象さえあるしな。

 

「誉めること」が度を過ぎてしまうとただの馴れ合いになるし、
個人的にそれは最も勧めないコミュニケーションだ。

 

だから、僕は人のことを誉めない。

 

その代わり、「あるがままの相手の一面を認識して、受け入れる」ことを重視するようになった。

 

相手の一面を「こうなのだな」と正確に認識する。

 

そして、その事実を受け入れて、自分がどう解釈しているのかをフィードバックする、
あるいはメモなどに残しておく。

 

「いいね」という感情ももちろん大切だけど、なぜ自分は「いいね」と感じたのか?

 

それを分析していくことで、
自分自身のことがわかるようになってくるからだ。

 

 

自分のことがハッキリわかっていれば、
どんな情報や意見を目にしても、ブレることもなくなるし。

 

自分が確信を持って行動して、
誰かが温かくその行動を見守ってくれているなと感じているのなら、
誉められるという行為は大して必要としなくなるのかもしれない。

最近では特にそう思うようになってきたのだ。

 

でも人間は何処かでつながりを持っていたい生き物である。
誰かからの言葉や反応が欲しいし、
それがないと活動を辞めてしまう人だってある。

 

僕は数年前から試行錯誤しながら形を変えつつ発信活動を続けてきているが、
最近では何の反応もなくても全く問題ない。

 

自分は自分なりに狂った世界で苦しんでいる人々の役に立てれば
それで良いと思うからだ。

 

 

ただし、もし何か新しい発見を見つけたり、
逆に「いやこれはこうだろ」と思うことがあったら、
その際は遠慮なくコメントを下さい。

 

 

とりあえず、時には反応しづらい内容も躊躇せずに書いているわけだが、
何も反応なくてもめげない(笑)。

 

 

現に、「サイレントマジョリティが抱える闇」という見えない怪物のせいで
多くの人が生きづらさを感じている。

 

そんな怪物の弁慶の泣き所に
ジョブを打ち続けていくに意味があるからね。

 

 

 

弁慶の泣き所?

 

 

 

 

…足の小指でも良いかも。

人間不信の人が人を信じられない本当の理由

木の形って胎児とか血管とか、人間や体の中に似ていると思うことがある。

 

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そんな時、「木」と「自分」という存在がなんだか繋がっているように思えてくるのだ。
しかし、それは僕自身の勝手な意味付けだ。

 

 

…そんな前置きはさておき、本題に入るが、
果たして人間不信な人というのは、本当に人間自体を信じられないのか。
たしかに、人間不信の人は、人間が信じられないから人間不信なのだ。

 

それは当たり前の事実だ。

 

しかし、ハナから人間を信じられない人間なんてそんなにいないだろう。

 

もし赤ちゃんの頃から人間不信だったら

 

「その母乳には毒が含まれてんだろ?俺は飲まねーよ。ケッ。」

 

なんてなんとも可愛くない子供が出来上がるし、
そもそもあなたがそんな赤ちゃんだったのならば、
今ここまで生きていけないはずだ。

 

僕も人を信じていたから、美味しいご飯や水を与えてもらっていたから、
今生きてるんだろうなって思うんだよね。

 

そう考えると、人間不信の人は、
人間不信という「意味付け」という自分にしていしまっているわけだ。

 

でもそれって「木の形が何かに似ている」と意味付けすることに、
本質的にはそんなに変わりないような気がするんだ。

 

それさえ払拭してしまえば
木は「木」なわけだし、あなたは「あなた」という本来のあるべき存在に戻るしね。

 

でも、そんな簡単にいかない。

 

それは何故か。

 

それは、多くの場合、成長するに連れて生じる出来事で
世の中や他人に対する見方が変わってしまうからだ。

 

信じていた人に裏切られたからとか、
相手に対して抱いていたイメージに失望したからとか、
詐欺の被害を受けたからとか、
色々理由はあると思うけど…

 

「自分を信じることができない故に、
安易に人間を信じてしまう。」

 

それが一番の問題のような気がした。

 

自分がそうだったからだ。

 

 

表面だけで他人の言動に流されてしまい、
挙句の果てには都合の良いように扱われてしまい、
自分が心底感じている感情に耳を傾けなかったからだ。

 

そこで考えた。

 

 

そもそも、「何でも信じてしまう人」というのは、
一見素直そうには見えるが、
心のどこかでは「違う」と思っていても、
その気持に嘘をついて相手に従ってしまうのだ。

 

だから最終的に怒りや悲しみなどといった
後味悪い「負の感情」が残ってしまうのではないかと思う。

 

一方で、心から人を信じることができる人、
自己肯定感が高い人というのは、
ハッキリ「ノー」と言えるか、
そもそも関心がないことには興味を示さないのだと思う。

 

そのため、自分と本当に合う人だけと付き合うことが出来るし、
やりたくないことをやることもなく、幸せに生きることが出来る。

 

そのため、人間不信の人が人間不信であり続ける本当の理由は、
人間を信じられないことではない。

 

自分の気持ちや考えを信じられないが故に、
他人の言動にいちいち左右されてしまうからだと思った。

 

さらに、自分も含め多くの人の場合、コミュニケーションも不足しているから、
不信感や疑問が生じた時にも争いを恐れて相手に聞けない、
コミュニケーションを取ろうとしないというのが
自分を不幸にさせている原因でもある。

 

「相手に悪い」とか「聞きづらい」とか
「自分が我慢すれば良い」とか
気を使っているからというのももちろんあるんだけろうど…

 

自分を1つの価値ある存在だと思っていないがゆえに
躊躇してしまうんだろうね。

 

「なぜ自分には価値が無いと思ってしまうのか」…
これについてはまた別の機会に考察してみたいと思う。

 

 

繰り返すが、人間不信が生じることで問題なのは、
他人を信じられないことではない。

 

自分を信じられないからだ。

 

自信を持て、と言っているわけじゃない。

そもそも僕は「自信」なんてものも存在しないと思うんだ。

 

自分を信じられない人というのは、

全ての物事を「相手の言動が自分に影響を与えるかどうか」
という基準だけで決めてしまっている状態。

 

だから、自分というものが無い。
自分を信じられないのだと思う。

 

他者の言動にブレない、所謂「自信がある人」というか、
「自分のことは自分で決める」と強い意志がある人は、
物事に対して一貫した態度を取れるわけだし、
仮に意見や考えが変わったとしても、それは自分の中で見出した答えだから、
他人は関係ないのだ。

 

よく、親であれ子であれ教師であれ友人であれ、全く知らない人であれ、
他者から何か学びを得た時に、「〇〇が大切なことを教えてくれた」と言うケースは良く見かけるけれど、
相手は自分に対してヒントを与えてくれただけであって、
「○○してあげた」なんて誰も思っていないケースも多々あると思う。

 

別に普段何気なく生活していて、
「自分が生きていることで誰かに勇気を与えているんだ!」なんて
別に考えてないでしょ?

 

中にはそう思いながら生活している人もいるかもしれないけれど、
多くの人は食べたいもの食べてやりたいことやって日々の仕事して…
そんな毎日を過ごすのが基本だと思う。

 

起こった事実に対して意味付をしていくのが、人間という生き物なのだ。

 

出来事や事象に意味や価値を見出して「相手のおかげ」だと考えるのも自分の意思だし、
逆に、相手の行動を「相手のせい」だと逆恨みしてしまうのも自分の勝手なんだよな。

 

確かに、人を信じることが出来て、
他人に対して常に感謝できるような思考が身についたら、
全ての物事に感謝できるようになるとは思う。

 

そんな人物になれたら、何か問題が起きても、
「自分で選択したことだから」と
自然と自分の行動に責任を持てるようになる。

 

人の意見に賛同するのか、
「一つの意見」として受け取るだけにとどまるのどうか(つまり賛同はしない)は
自分自身で決めるものであり、他人がするものではない。

 

それが、「自分で人生の決定権を持つ」ということなんだろう。

 

なので、自分の行動に責任が持てる人、
自己責任で行動できる人というのは、
相手を尊重できるし、自分自身の気持ちにも敏感である。

 

「好きか嫌いか」
「やりたいのかやりたくないのか」
「気が向くのか向かないのか」

…などなど、

これらが全てハッキリしているからね。

 

 

これがもし「誰々がこう言ったから(自分は悪くない)」
といった理由だけで、つまり他者のせいにして行動してしまうようになると、
結局のところ、人の意見一つ一つに悪い意味で影響されやすい人間が出来上がってしまう。

 

被害妄想ね。これは悪だよ。

 

あなたにお子さんがいるならば、こういった被害妄想は良くないと教え諭す必要がある。
また、あなた自身が「被害妄想的な言動を絶対にしない」と心がけることも重要だ。
子供は親の細かい部分まで見ているからね。

 

被害妄想的な言動からは相手の気持ちを正しく理解していないだけでなく、
相手の行動で自分の選択が決められてしまっているという点で、
自分の気持ちも蔑ろにしてしまっている。

 

これでは、いくら心の中では「変わりたい」と思っていても、
何度も同じようなことを繰り返す可能性があるので、
もしそういった思考が習慣になっているなと感じたら、
できるだけ早く手放せられるよう心がけてみて欲しい。

 

※自己責任論については以下の記事を参考にしてみてね。

ともかく、相手が悪人であれ善良な人であれ、
「相手と本音で語る」ことを経験しないと、人を信じることなんて出来ない。

 

「自分は人間不信だから」と言って引きこもっていたら
いつまでもその自分を変えることが出来ない。

 

それだと何が不都合かというと、
…別に誰も困らない。

 

ただ、あなた自身は幸せに生きられないとは思う。

 

別に不幸なままの自分でいたいというのであれば、
人間不信のままでも良いんじゃないかな?

 

ただ、誰もあなたのことなんて四六時中気にかけているわけではないし、
逐一自分のことを気にかけてくれるわけではない。

それは知っておく必要はある。

 

その上、誰もあなたの存在が迷惑だなんて考えている人も
そんなに多くいるわけではない。
もしかしたら全然いないかもしれない。

それも知っておく必要がある。

 

その事実があった上で、人間不信のままで居続けるのって
なんだか虚しいと思わないかな?

 

別に無理をして自分を好きになる必要もないし、
人を好きになる必要もない。

自分がなりたくないと思う自分に、あえてなるという選択肢もあるだろう。

 

もちろん、本当にあなたを騙そうとする人間とか、
悪意だけで接してくる人間とか、
良いように利用しようとする人間とか、
悪質な人間もいることはいる。

 

だから、人を見る目は養っていく必要があるけど。

 

しかし、人間は自分に敵意を示す人や
自分を利用しようと近づいてくる人だけではない。

 

好意を持ってくれている人もいるわけだし、
すれ違う人達も他人に親切にしたいと思っている人がいることは確かだ。

 

少なくとも僕はそうだ。
「自分に近寄るな」オーラを出していない限りは(笑)。

 

皆どこかで、「誰かの力になりたい」「誰かと繋がりたい」と思っているんだよ。
だからSNSがこんなにも発達しているんじゃないかな。

 

世界には美しい景色がたくさんあるし、
まだ見ていないことのほうが、むしろ遥かに多いはず。

 

今、仮にあなたが苦痛を強いられている状況だとしても、
自分の選択次第でそれは変えられる。

 

そう思ったらこの世界で生きていくのも悪くないし、
少しは誰かを信じてみようという気持ちにならないかな?

 


2016年8月某日 広島県広島市にて

僕も人間不信でさ、嫌な出来事がある度に、さらに強めてしまうようなこともあった。
でも、「その状態だとこの先辛いだけだ」と思ったから、もう辞めた。

 

今まであれこれ色んな本を読んだり、セミナーを受けたり、
ネット上の商材も購入したりしたけど、
もう今後はむやみやたらに「自己投資」はしないつもりだ。

 

シンプルに人を信じることにした。

 

 

本気で変わりたいと思ったら、
別に特別な行動をしなくたって良い。

 

まずは眼の前にいる人を心から人を信じてみる。

 

この時、心のどこかで不信感や嫌悪感を抱いていたら、
表面だけの付き合いにしかならない。

 

ただただ、相手に対して一方的に「期待」することなく、
相手という人間を心から「信頼」すること。

 

仮にトラブルや意見の食い違いが起こってしまったとしても、
心からその人のことを「一人間」として信頼できるのかどうかが重要だ。

 

そうすることで、本当に心の通った人と良好な関係を築くことが出来るし、
自分自身の成長にも繋がっていくだろう。

 

※人を「信頼する」ことと、「期待する」ことの違いについては、
以下の記事も参考にしてみてね。

 

この「信頼する」という、ただシンプルなことを徹底的に行うことが重要なのは、
何か物事を始めた時に、途中で諦めてしまうことを食い止めることにも繋がる。

 

「諦める」というのは自分を信じられないだけではなく、
自分が信じた人を信じられないからだろう。

 

多くの物事は何かを行う上で「師」と呼ばれる人が必要になってくるのだろうけど、
その「師」から守破離で最終的に離れることになったとしても、
「守」さえもしっかり行えていないようであれば、それは「師」ではなく自分の問題だからだ。

 

だから思うようにいかないんじゃないかなと思う。

 

人生なんてそんなに複雑なものではない。

 

出会った人に「縁」を感じたならば、
その人のことを信じているだけで良い。

 

万が一違和感が生じてきたら、自分の心に問いかけてみる。

 

必要があれば環境を変えてみる。

 

そのシンプルなことを繰り返すだけで良いのだ。

 

長い期間はかかるかもしれないけれど、それだけで徐々に変わっていく。

 

もう何度も同じことを繰り返しているけれど、
大切なことだからもう一度言うわ。

 

まずは、「目の前の人を心から信じてみる」

 

そこから始めよう。