「自分探し」の人生より、「宝探し」の人生のほうが簡単。

僕は自分のこだわりがあまりにも強い。

 

短気だし。気分屋だし。

 

良い人ぶって大人しくしているうちは害がないのだが、
そういう我が強い部分が出ていると非常に面倒くさい奴だと思う。

 

なので、他人のちょっとした言動を
必要以上に気にしたり、
イライラしたりしてしまうことが多かった。

 

相手の言葉一つとっても

 

「今のどういう意味だったんだろう?」
「俺のこと嫌いなのかな?」

 

 

…という

端から見ればどうでも良いことを細かく気にしてしまうので

 

 

 

まぁーーー気が休まらなかったね。

 

 

 

 

でも、最近ようやく気づいたんだ。

 

 

「人が自分が快適に過ごせるようにしてくれるのかを気にするよりも、

自分が人と一緒に成長していく…

そんな風に考えたほうが楽だし楽しくないか?」

 

 

って。

 

 

今までの僕は、すぐに人と自分を比べては

劣等感を感じてしまっていた。

 

 

自意識過剰で

「どう見られるか」「どう思われるか」

やたら気にしていたし。

 

 

一つの出来事をネガティブに捉えてしまうものだから

卑屈で皮肉屋で斜に構えすぎていた時期もあった。

 

 

 

 

しかし…

こういった一連の行為は全て自分を苦しめるものだ。

 

 

自分を受け入れられない、愛せていない。

 

 

「より自分を嫌いになるために」

自分自身で選んだ行為なのだ。

 

 

ついつい他人のせいにしてしまっていたけれど、

過去に起こった出来事はもう既に過去のことだし、

それに執着するのも時間が勿体無い。

 

 

そもそもその行為に他人は関係ないのだ。

 

 

「自分の人生なのだから、全てが自分の責任。」

 

 

…この言葉に納得するには時間がかかったけれど、

徐々にでも考えを改めるようになった。

 

 

そして、気づいたんだ。

 

 

これからは人の顔色を伺わないで

自分の機嫌だけとれば良いんだって。

 

 

相手の感情は相手の責任であり、

相手が引き起こしたことは相手の責任だからである。

 

 

もちろん同様に、

自分の感情の責任も自分で取らないといけないし、

自分が引き起こしたことも自分の責任となる。

 

 

一見すると、これって苦痛に見える。

 

 

しかし、これって逆に言えば、

 

 

「どんなに大変な状況を引き起こしてしまったとしても

自分の解釈次第で嫌な出来事にも良い出来事にでもなる」

 

ということだ。

 

 

 

 

つまりこれって、

「判断を他者に委ねない、自分の好きにできるからめちゃくちゃ楽」

なんだよ。

 

 

嫌な出来事を良い出来事として解釈できるようになるには、

日頃から自分の成長を実感していけば良い。

 

 

一見すると自分が悪くないものでも、

自分で引き起こしたことだと思えば、

その経験を生かして次に繋げることができる。

 

 

「他者が自分を快適にさせてくれるかどうか」や

「他社によって自分が傷つかないか」

 

 

ということに目を向けていては

常ににそのことばかり意識を取られてしまい、

大きく成長することはできないだろう。

 

 

自分のことしか考えていない、

視野が狭まっている状態だからである。

 

 

その上、何かを恨んでいる暗い自分のままでは、

自分を愛せていないゆえに不満も多く、

「自分が愛せない自分」であり続けるために

いつまでもやりたいことを実現できないし、

付き合う人も限られていくことにもなる。

 

 

こういった性格から脱却するためにも

「良い人」を演じることをしなくなるためにも

「傷つきたくない」という目的のために

無理に予防線を張ることもなく、

ありのままの自分で生きるためにも

好きなように振る舞ったら良いのだ。

 

 

行きたいところに行けば良いし、

やりたいことをやれば良い。

 

とにかく

 

「頭に描いている自分のイメージを

すぐに実践して体現させること。」

 

 

 

それに気づいてから楽になった。

 

 

僕の場合は旅行で全国を飛び回ることかな。

 

 

自分がどう振る舞おうと、

相手の感情までコントロールできないんだし。

 

 

それならいっそのこと

「自分はこうだから」って

開き直ってしまったほうが良いだろう。

 

 

結果、僕の場合だが、

自分の機嫌を取ることにしか興味がなくなった。

 

 

その結果…

 

「他人の言動が自分を不快にさせるかどうか」

 

以前に比べてあまり気にならなくなった。

 

 

まぁ失礼な奴がいたら相応の態度は取るかもしれないけど、

基本的にはスルーすれば良いし

人が自分をどう思うかあまり深く考えない。

 

 

「相手がどう感じるか、どう考えるのか」

こういった相手の思考は相手の問題だし

そこは自分の踏み込むべき領域じゃないからだ。

 

 

同様に、

「相手が自分をどう思うか」も、

自分にはどうにでもできないことだし

相手の自由にさせておけば良いだろう。

 

 

不幸な人生を送りたい人は

悲劇のヒーロー(ヒロイン)ぶって被害妄想を続けるだろうし、

 

 

自分の人生を変えたい、成長したいと思っている人は

どんな出来事からも学ぶことが出来るからだ。

 

 

全ての出来事はね、必要があるから起こるんだ。

 

 

「目の前の相手が何を求めて伝えようとしているのか?」

「過去にどういう経緯があって今こういう状況なのか?」

 

 

相手がどんなメッセージを発しているのかを考えるようにすることで、

自分自身の成長にも繋がる。

 

 

すべての人と仲良くする必要はないかもしれないが、

理解しようと努めることで大きな気付きにもなる。

 

 

自分の本当の気持がわからない人、

やりたいことがわからない人、

もやもやしながら毎日を送っている人、

世の中にはそんな人達がたくさんいることだろう。

 

 

僕は、自分探しの人生もいいけど、

宝探しの人生を送る方がもっと簡単だと思う。

 

 

「宝」とは「学び」のことだ。

 

 

何気なく過ごしている毎日でも

自分の成長となるための「宝」が

そのへんに転がっているはず。

 

 

より多くの「宝」を見つけるために、

普段のあなたではあまり見ないような部分にも

目を向けていってみてはいかがだろうか。

 

 

もしかしたら巨大な財宝が隠されているかもしれない…。

 

他人の感情なんて気にしなくていいのサ

以前、以下の記事↓で「自分の問題」と「相手の問題」を切り分ける、といった内容について説明した。

 

 

自分が楽になるためにも、相手を本当の意味で思いやるためにも、
「自分」と「相手」の領域は認識しておくことが大切なのだ。

 

今回はより情緒的な面、

「自分の感情」と「相手の感情」の切り分け方についてさらに深掘りしていきたい。

 

 

 

最近、ちょっと面倒なことが起きた。

 

 

いや、僕も言い方が悪かったなという反省はあったのだけれど、

 

 

明らかに相手が自分で事を招いたというか、
相手が勝手に思い込んで僕にきちんとした確認もせず勝手に話を進めていたのだ。

 

それで両者で認識が違っていたという事態が起きた。

 

さらに、自分で事を招いたにも関わらず、
「〇〇してもらえないと困るんですよ。」というようなことを僕に言ってきたのだ。

 

 

まぁ簡単に言うと…

 

 

「そんなの知るかよ(笑)。」と言いたくなるような出来事だった。

 

 

しかも、相手は相手でこちらを悪いと思っているフシがあるらしく、
自らの過失を認めつつも特にちゃんとした謝罪の言葉はなかった。

 

 

ただ、相手も一応相手自身のしたことは反省したようで、
事が起こった後はこちらにきちんと確認してきた。

 

 

そして、最終的には両者が妥協できる形で落ち着いたから別に良いんだけどね。

 

 

でもなんだかモヤッと来た、ぶっちゃけ。

 

 

俺が相手の立場だったら、きちんと確認しなかったこちらが悪いと思ってちゃんと謝るし、
実際、こちらの何気ない発言で相手が間違った認識で動いてしまっていたことは申し訳なく思った。

 

しかし、実際動く前に再確認するなどしてもらわなければ、そんな事情はわからないわけである。

 

さらに、「こちらも悪いところはあったけど、心底納得していない。」みたいな空気を
相手から感じ取ってしまったからだ。

 

 

あーーーーーーーーめんどくせーーーーーーー!!!!!!!!!

 

 

って思ったね(笑)。

 

 

…愚痴ってしまって申し訳ない。

 

 

でも、こういうトラブルって誰もが経験したことあると思うんだ。

 

 

「相手だって悪い部分があるのに、被害妄想が激しいなぁ。」

 

とか

 

「一方的にこちらが悪いみたいになるのは納得いかない。」

 

とか

 

このような感じで、

モヤモヤした感情になることはあなたも少なくないのではないか。

 

むしろ「そんなのしょっちゅうだよ!」っていう人もいるかもね。

 

 

でも、こういう出来事っていうのは、意味があって起こるんだよ。

 

 

 

こういう事態になった時、気をつけたいことがいくつかある。

 

 

まず…

 

相手のせいにするのは簡単だけれど、被害妄想的な考えにはならないこと。

 

 

起こってしまったことに対して、いつまでも怒っていたって仕方がない。

どう気をつけたら良いのか?自分の中での改善点を探し出すなり、

相手はどうしてほしかったのか?と考察するなりしよう。

 

次に…

 

例え相手があなたのせいにしてきても、そんなのは放っておこう。

 

 

これは簡単なことで、

そんなことに時間もエネルギーも奪われてしまうのは無駄なことだからだ。

 

自分のことは十分に愛せている分、自分に対する評価には無関心で、

「あぁ、そうですか。」と受け流す、

もしくは笑ってネタにするくらいが丁度よい。

 

※ちなみに僕としては、NON STYLEの井上さんみたいな生き方が理想だ。

 

自分のことを十分に愛せていれば、他人がなんと言おうか気にならない。
 

 

そして…

 

 

人がどう言おうと、あなたはあなたの内面だけに目を向けて、
自分が成長するような考え方を身に着けるようにしよう。

 

 

つまり、人間関係に置いて、こういうモヤッとした感情になった時に
ぜひ思い出してほしいことがある。

 

 

それは…

 

「相手の被害妄想、相手の自分に対する怒りの感情は相手の問題だ。」

 

ということである。

 

 

事態を招いた原因は、もちろん自分にもあるかもしれないが、
犯罪や暴力、権力の乱用などを除き、
大抵のことはどちらかが100%悪いということはないのである。

 

 

今回の場合、僕は

 

「僕自身も思い込みが強いため、

“もしかしたら”のことを考えて相手に確認しなかったのが問題だった。」

 

「相手が何も言わなければ(特に問題ないと思い込み)

こちらは何もしない、という受け身の姿勢が問題だった。」

 

という「自分の反省点」を明確にすることができた。

 

 

一方で、相手のことはどうだろう。

 

 

冒頭で相手の行為について「事前に確認してこなかった」と言ってしまったが、

相手は相手の問題なので、

正直、「推測はできるが、わからない。」というのが僕の答えだ。

 

 

誤解を恐れず言えば、

「相手の問題は相手の問題なんだから、僕には関係ない。」

ということである。

 

相手がキレようが泣こうがこちらのせいにしてこようが
徹底的に「他人は他人、自分は自分。」を貫く。

 

それが相手に対する本当の思いやりで、健全なメンタルを保つための姿勢なのだ。

 

一見逃げているように見えるけど、これがお互いにとってベストな考え方なんだよ。

 

どこまでが自分の責任で、自分が相手の機嫌を取らなくちゃいけなくて…

などと考え始めたらキリがないからね。

 

 

「自分が解決できる領域」と「自分には解決できない領域」

これらを区別することが大切なんだ。

 

 

自分の領域(問題、願望など)だけを把握しておこう。相手の領域は未知数なのだから。
 

 

 

ここで、「相手を迷惑をかけてしまって自分ってダメな奴」とか
「何をしたら自分に対する印象を良くしてくれるかなぁ?」とか…

 

相手の考え方や感情に踏み込むような、余計なことを考えてはいけない。

 

というか、そんな事を考えたって仕方がない。

 

直接相手に聞くならともかく、

勝手に自分自身で思い込んでいるからだ。

 

それは「自分にとって解決できない領域」なのである。

 

 

もし問題が起きて、

あなたが「〇〇してきたのは明らかに相手が悪いのに!」と思ってしまったら、

それは「相手の問題に踏み込んでしまっている」ということだ。

 

 

ここでもう一度思い出してほしい。

 

 

「相手の被害妄想、相手の自分に対する怒りの感情は相手の問題だ。」

 

 

私は私の好きなように生きる。

 

それを嫌だと思う、文句があるのならご自由にどうぞ。

 

 

自分の人生を楽しく生きるのも、誰かを嫌ったり恨んだりするのも、

その人の自由であり、

その人の人生における「その人自身の責任」なのだ。

 

あなたが自分の身を捧げて削ってまで解決するべきことじゃない。

 

相手のことは、相手を信頼して、相手に任せよう。

 

例え一時的に嫌な感情になったとしても、

自己成長できる人は自分自身できちんと考えてくれるから。

 

なので、起きたことに対していつまでも怒ったり悲しんだりしないこと。

 

 

というわけで、まとめると

 

「他人があなたのせいにしようがあなたに不満を抱こうがそんなの関係ない。

それは相手の人生に対する相手自身の責任だからだ。

 

あなたはあなたの人生を、自分自身のために生きればよい。

それがあなたの人生に対するあなた自身の責任だ。」

 

 

…ということだ。

 

 

ただし、相手が明らかに名誉毀損や営業妨害に当たる行為をしてきたときは、

あなた自身の「正義」を守るためにも、徹底的に戦って良いと思うよ。

 

 

でもあなた(もしくは相手)に悪意がなくてことが起こった場合、

大概のことは、相手(あなた)がどのように受け取ろうが自己責任の範囲である。

 

それを捻くれた認識で捉えすぎてしまうと、人間嫌いになってしまうのである。

 

↓これについて、もしよければこちらの記事も参考にしてほしい。

 

別に人が好きにならなくても良いけど、

人に対してさほど期待しなければ嫌いにもならないと思うんだ。

 

 

あなたに対して怒り狂っている相手がいたとしても、

それに怯むこと無く、

「ふーん、そうなんだー。」とただただ眺めていればいい。

 

それから、相手の事情を把握した上で、

自分を客観視して解決策(改善点など)を見出してみよう。

 

 

急には難しくても、少しずつ、実践してみてほしい。

 

 

 

日常で一つ一つの出来事や感情に対して、

「これは自分の問題か?」「これは相手の問題か?」

って考えるのもおすすめ!

 

 

こういったことを続けていくうちに、

 

周囲の人に気を使いすぎて、相手のことを考えすぎて疲れてしまう…

 

そんなこともなくなるはずだ。

 

 

というか…そんなこと、もうしなくて良い。

 

 

自分のために生きていこうよ。

負の感情も他人の攻撃も気にならなくなる魔法の言葉

最近はついイラッとしてしまう自分に目を向けて
これはいけないと思い、いろいろ対処するようにしている。

 

その場合は一旦冷静になってこう思うことにしている。

 

「自分はまだ自分の問題が解決できていない。」

 

この言葉の意味は明白で、自分自身がまだ未熟だから
他人の言動によって自分の感情が左右されるというもの。
怒りや悲しみなどの「負の感情」が湧き上がってきてしまうのだ。

そうならないように日々学んで成長していきたいよね。

 

一方で、自分の周囲において嫌な言動をする人は最近では少なくなったけど、
街中だとどうしても赤の他人と関わることになるわけだし
理不尽な思いをするケースだってあるわけだ。

 

相手の悪意ある言動の被害を受けてしまうことだってあるだろう。

 

 

その場合も同様に、

 

「相手はまだ相手の問題が解決できてない。」

 

と思えば良い。

 

 

自分自身で湧き上がらせている負の感情も
相手からの悪意ある理不尽な言動も
自分の成長のチャンスになるわけだ。

 

そう考えると、傷つくことや不快な気持ちになることを
過剰に恐れずに済むのでは?と思う。

 

人は本来、人を傷つけることなんて出来ない。

 

ナイフなど物理的に人を傷つけることは出来るし、
実際刺されたら怪我するし下手したら死ぬし
刺した人は逮捕されるわけだが…

 

一方で、悪口や非難、その他罵詈雑言など負の要素を含む
「言葉のナイフ」というものは…

 

「避けられる」

「ガードできる」

「刺さってもすぐに傷口を消せる」

 

などという選択肢だって存在するわけだ。

 

考えてみたらいくらでも自分でどうにかできるんだから、
実際に刺されるよりかはマシだよね。

 

 

ナイフに催眠術かけようとしたけどダメだった…。
 

 

つまり、他者からの物理的でない、「精神的な暴力」に関しては
自分自身で「なかったことにできる」のだ。

 

こうなると
「言葉のナイフを刺した奴を養護するのか」
と思われそうだが、そうではない。

 

自分の人生を楽しく生きるか、自分らしく生きるかどうかについて、

「自分の人生は自分で決めるもの。」

という考えがある。

 

 

「相手が暴力的な言動をした」という事実はあったとして、
それを実際罪に問うべきものなのかどうかはとりあえず置いておいて、

嫌な出来事に対して自分をどんな人物像に仕立て上げるかは、
他の誰でもない、自分の人生に対する責任なのだ。

 

 

仮に「救世主」があなたの元に現れて心の傷を癒やしてくれたとしても、
あなたの生き方や考え方について変えることが出来るのは、
他の人じゃできないからね。

 

 

救世主がいないと生きられない、弱々しい「村人A」として生きるのか、
世の中や特定の人物に対する恨みつらみが消えずに、「悪の化身」と化して世界を闇に葬るのか、
救世主のおかげで自分は助かった、じゃあ今度は自分が人々を助けようと
「ヒーロー(ヒロイン)」のようなカリスマ的存在として生きるのか

 

…などなど

 

全てあなたが自由に生き方を決められるのだ。

 

 

もしあなたが「傷つかない」という選択肢をとれるようになりたいというのであれば、
心を鍛えていく必要がある。

 

 

筋肉はジムや日々のトレーニングで鍛えられるが
「心を鍛える」というのはジム通いじゃできない。

 

 

ではどうすればよいのかというと、

 

「少しでも多くの言葉や価値観、物の見方を知っておく。」

 

必要がある。

 

 

ちょっとしたことでも傷つく人もいれば、
何を言っても無反応な人がいるように、
一つの物事にしてもいろんな解釈と反応、考え方があるわけだ。

 

だったらできるだけ反応しないほうが良い。

 

その方が精神衛生上自分が楽になるのである。

 

そのためには

相手を「人間ではない、一つの現象」

みたいにバッサリ捉えてしまうというのもアリだ。

 

 

 

こちらの書籍でわかったことだが…

 

自分がマイナスの感情を放つから
失敗して怒られた時にも相手の感情を逆なでさせて
ますます怒られてしまうことになるのだ。

 

それに自分が影響を受けて病んでしまうのでは
自分自身が一番苦しくなるだけ。

 

先に自分で反省して自分の中で解決してしまえば、
あとは怒られても平謝りしておけば良いだけ。
相手も平然な人には反応しないからそれ以上怒られることはない。

 

「失敗しちゃいけない」
「ちゃんとやらなきゃ」
と萎縮したり緊張したりしてまた失敗してしまう、
また怒られるということも避けられる。

 

(↑引用するのが面倒だから僕自身の言葉で書いてるけど、
書籍のほうが素敵な文章なので、気になる方はぜひ書籍を読んでいただきたい。)

 

 

相手からの一方的な価値観の押しつけ、
相手からの理不尽かつ暴力的な言動、
相手のミスや勘違いなのに自分が怒られた、

 

…などというのであれば
なおさら「反応しない」ことが必要になる。

 

 

だから、この言葉が意味をなすのだ。

 

「相手はまだ相手の問題が解決できていない。」

 

あなたが自分の感情を自分でコントロールできるのと同じように、
相手が負の感情を生み出すのかどうかも相手が決めることである。

 

それが出来てないということは相手の課題でもあるし、
本来、あなたには関係ないのだ。

 

 

それを受け取ってしまうと、
「相手の課題」を「自分の課題」にしてしまうことになる。

 

 

僕も正直な性格だから
嫌いな人間には基本塩対応だったり、
明らか避けてるの(苦手に思っているの)見え見えだったり
悪気なくても誤解されるような言動もしてしまったりしたから
過去の人間関係においてトラブルも多かった。

 

 

まぁやたら協調性やルール、一方的な価値観を押し付ける日本社会が異常なだけであって
トラブルが全く無いという人の方がむしろいないのかもしれないが、
相手を刺激させない程度のスルー力は身に付けたいし、
つまらない衝突は避けていつでものらりくらり生きていたいよね。

 

そのためには「自分」と「相手」の境界を
明確にしておかないとね。

 

 

「相手の問題と自分の問題を切り分けて考える」

 

このことについても今後深掘りして詳しく説明できたらと思う。

 

 

以前購入したこの本もまた読み返してみようかな。

 

 

 

 

のらりくらりと。

(↑最近、気に入ってる言葉らしい。)

人間不信の人が人を信じられない本当の理由

木の形って胎児とか血管とか、人間や体の中に似ていると思うことがある。

 

天海夜 煌琉さん(@koryu_aminumiya)がシェアした投稿


そんな時、「木」と「自分」という存在がなんだか繋がっているように思えてくるのだ。
しかし、それは僕自身の勝手な意味付けだ。

 

 

…そんな前置きはさておき、本題に入るが、
果たして人間不信な人というのは、本当に人間自体を信じられないのか。
たしかに、人間不信の人は、人間が信じられないから人間不信なのだ。

 

それは当たり前の事実だ。

 

しかし、ハナから人間を信じられない人間なんてそんなにいないだろう。

 

もし赤ちゃんの頃から人間不信だったら

 

「その母乳には毒が含まれてんだろ?俺は飲まねーよ。ケッ。」

 

なんてなんとも可愛くない子供が出来上がるし、
そもそもあなたがそんな赤ちゃんだったのならば、
今ここまで生きていけないはずだ。

 

僕も人を信じていたから、美味しいご飯や水を与えてもらっていたから、
今生きてるんだろうなって思うんだよね。

 

そう考えると、人間不信の人は、
人間不信という「意味付け」という自分にしていしまっているわけだ。

 

でもそれって「木の形が何かに似ている」と意味付けすることに、
本質的にはそんなに変わりないような気がするんだ。

 

それさえ払拭してしまえば
木は「木」なわけだし、あなたは「あなた」という本来のあるべき存在に戻るしね。

 

でも、そんな簡単にいかない。

 

それは何故か。

 

それは、多くの場合、成長するに連れて生じる出来事で
世の中や他人に対する見方が変わってしまうからだ。

 

信じていた人に裏切られたからとか、
相手に対して抱いていたイメージに失望したからとか、
詐欺の被害を受けたからとか、
色々理由はあると思うけど…

 

「自分を信じることができない故に、
安易に人間を信じてしまう。」

 

それが一番の問題のような気がした。

 

自分がそうだったからだ。

 

 

表面だけで他人の言動に流されてしまい、
挙句の果てには都合の良いように扱われてしまい、
自分が心底感じている感情に耳を傾けなかったからだ。

 

そこで考えた。

 

 

そもそも、「何でも信じてしまう人」というのは、
一見素直そうには見えるが、
心のどこかでは「違う」と思っていても、
その気持に嘘をついて相手に従ってしまうのだ。

 

だから最終的に怒りや悲しみなどといった
後味悪い「負の感情」が残ってしまうのではないかと思う。

 

一方で、心から人を信じることができる人、
自己肯定感が高い人というのは、
ハッキリ「ノー」と言えるか、
そもそも関心がないことには興味を示さないのだと思う。

 

そのため、自分と本当に合う人だけと付き合うことが出来るし、
やりたくないことをやることもなく、幸せに生きることが出来る。

 

そのため、人間不信の人が人間不信であり続ける本当の理由は、
人間を信じられないことではない。

 

自分の気持ちや考えを信じられないが故に、
他人の言動にいちいち左右されてしまうからだと思った。

 

さらに、自分も含め多くの人の場合、コミュニケーションも不足しているから、
不信感や疑問が生じた時にも争いを恐れて相手に聞けない、
コミュニケーションを取ろうとしないというのが
自分を不幸にさせている原因でもある。

 

「相手に悪い」とか「聞きづらい」とか
「自分が我慢すれば良い」とか
気を使っているからというのももちろんあるんだけろうど…

 

自分を1つの価値ある存在だと思っていないがゆえに
躊躇してしまうんだろうね。

 

「なぜ自分には価値が無いと思ってしまうのか」…
これについてはまた別の機会に考察してみたいと思う。

 

 

繰り返すが、人間不信が生じることで問題なのは、
他人を信じられないことではない。

 

自分を信じられないからだ。

 

自信を持て、と言っているわけじゃない。

そもそも僕は「自信」なんてものも存在しないと思うんだ。

 

自分を信じられない人というのは、

全ての物事を「相手の言動が自分に影響を与えるかどうか」
という基準だけで決めてしまっている状態。

 

だから、自分というものが無い。
自分を信じられないのだと思う。

 

他者の言動にブレない、所謂「自信がある人」というか、
「自分のことは自分で決める」と強い意志がある人は、
物事に対して一貫した態度を取れるわけだし、
仮に意見や考えが変わったとしても、それは自分の中で見出した答えだから、
他人は関係ないのだ。

 

よく、親であれ子であれ教師であれ友人であれ、全く知らない人であれ、
他者から何か学びを得た時に、「〇〇が大切なことを教えてくれた」と言うケースは良く見かけるけれど、
相手は自分に対してヒントを与えてくれただけであって、
「○○してあげた」なんて誰も思っていないケースも多々あると思う。

 

別に普段何気なく生活していて、
「自分が生きていることで誰かに勇気を与えているんだ!」なんて
別に考えてないでしょ?

 

中にはそう思いながら生活している人もいるかもしれないけれど、
多くの人は食べたいもの食べてやりたいことやって日々の仕事して…
そんな毎日を過ごすのが基本だと思う。

 

起こった事実に対して意味付をしていくのが、人間という生き物なのだ。

 

出来事や事象に意味や価値を見出して「相手のおかげ」だと考えるのも自分の意思だし、
逆に、相手の行動を「相手のせい」だと逆恨みしてしまうのも自分の勝手なんだよな。

 

確かに、人を信じることが出来て、
他人に対して常に感謝できるような思考が身についたら、
全ての物事に感謝できるようになるとは思う。

 

そんな人物になれたら、何か問題が起きても、
「自分で選択したことだから」と
自然と自分の行動に責任を持てるようになる。

 

人の意見に賛同するのか、
「一つの意見」として受け取るだけにとどまるのどうか(つまり賛同はしない)は
自分自身で決めるものであり、他人がするものではない。

 

それが、「自分で人生の決定権を持つ」ということなんだろう。

 

なので、自分の行動に責任が持てる人、
自己責任で行動できる人というのは、
相手を尊重できるし、自分自身の気持ちにも敏感である。

 

「好きか嫌いか」
「やりたいのかやりたくないのか」
「気が向くのか向かないのか」

…などなど、

これらが全てハッキリしているからね。

 

 

これがもし「誰々がこう言ったから(自分は悪くない)」
といった理由だけで、つまり他者のせいにして行動してしまうようになると、
結局のところ、人の意見一つ一つに悪い意味で影響されやすい人間が出来上がってしまう。

 

被害妄想ね。これは悪だよ。

 

あなたにお子さんがいるならば、こういった被害妄想は良くないと教え諭す必要がある。
また、あなた自身が「被害妄想的な言動を絶対にしない」と心がけることも重要だ。
子供は親の細かい部分まで見ているからね。

 

被害妄想的な言動からは相手の気持ちを正しく理解していないだけでなく、
相手の行動で自分の選択が決められてしまっているという点で、
自分の気持ちも蔑ろにしてしまっている。

 

これでは、いくら心の中では「変わりたい」と思っていても、
何度も同じようなことを繰り返す可能性があるので、
もしそういった思考が習慣になっているなと感じたら、
できるだけ早く手放せられるよう心がけてみて欲しい。

 

※自己責任論については以下の記事を参考にしてみてね。

ともかく、相手が悪人であれ善良な人であれ、
「相手と本音で語る」ことを経験しないと、人を信じることなんて出来ない。

 

「自分は人間不信だから」と言って引きこもっていたら
いつまでもその自分を変えることが出来ない。

 

それだと何が不都合かというと、
…別に誰も困らない。

 

ただ、あなた自身は幸せに生きられないとは思う。

 

別に不幸なままの自分でいたいというのであれば、
人間不信のままでも良いんじゃないかな?

 

ただ、誰もあなたのことなんて四六時中気にかけているわけではないし、
逐一自分のことを気にかけてくれるわけではない。

それは知っておく必要はある。

 

その上、誰もあなたの存在が迷惑だなんて考えている人も
そんなに多くいるわけではない。
もしかしたら全然いないかもしれない。

それも知っておく必要がある。

 

その事実があった上で、人間不信のままで居続けるのって
なんだか虚しいと思わないかな?

 

別に無理をして自分を好きになる必要もないし、
人を好きになる必要もない。

自分がなりたくないと思う自分に、あえてなるという選択肢もあるだろう。

 

もちろん、本当にあなたを騙そうとする人間とか、
悪意だけで接してくる人間とか、
良いように利用しようとする人間とか、
悪質な人間もいることはいる。

 

だから、人を見る目は養っていく必要があるけど。

 

しかし、人間は自分に敵意を示す人や
自分を利用しようと近づいてくる人だけではない。

 

好意を持ってくれている人もいるわけだし、
すれ違う人達も他人に親切にしたいと思っている人がいることは確かだ。

 

少なくとも僕はそうだ。
「自分に近寄るな」オーラを出していない限りは(笑)。

 

皆どこかで、「誰かの力になりたい」「誰かと繋がりたい」と思っているんだよ。
だからSNSがこんなにも発達しているんじゃないかな。

 

世界には美しい景色がたくさんあるし、
まだ見ていないことのほうが、むしろ遥かに多いはず。

 

今、仮にあなたが苦痛を強いられている状況だとしても、
自分の選択次第でそれは変えられる。

 

そう思ったらこの世界で生きていくのも悪くないし、
少しは誰かを信じてみようという気持ちにならないかな?

 


2016年8月某日 広島県広島市にて

僕も人間不信でさ、嫌な出来事がある度に、さらに強めてしまうようなこともあった。
でも、「その状態だとこの先辛いだけだ」と思ったから、もう辞めた。

 

今まであれこれ色んな本を読んだり、セミナーを受けたり、
ネット上の商材も購入したりしたけど、
もう今後はむやみやたらに「自己投資」はしないつもりだ。

 

シンプルに人を信じることにした。

 

 

本気で変わりたいと思ったら、
別に特別な行動をしなくたって良い。

 

まずは眼の前にいる人を心から人を信じてみる。

 

この時、心のどこかで不信感や嫌悪感を抱いていたら、
表面だけの付き合いにしかならない。

 

ただただ、相手に対して一方的に「期待」することなく、
相手という人間を心から「信頼」すること。

 

仮にトラブルや意見の食い違いが起こってしまったとしても、
心からその人のことを「一人間」として信頼できるのかどうかが重要だ。

 

そうすることで、本当に心の通った人と良好な関係を築くことが出来るし、
自分自身の成長にも繋がっていくだろう。

 

※人を「信頼する」ことと、「期待する」ことの違いについては、
以下の記事も参考にしてみてね。

 

この「信頼する」という、ただシンプルなことを徹底的に行うことが重要なのは、
何か物事を始めた時に、途中で諦めてしまうことを食い止めることにも繋がる。

 

「諦める」というのは自分を信じられないだけではなく、
自分が信じた人を信じられないからだろう。

 

多くの物事は何かを行う上で「師」と呼ばれる人が必要になってくるのだろうけど、
その「師」から守破離で最終的に離れることになったとしても、
「守」さえもしっかり行えていないようであれば、それは「師」ではなく自分の問題だからだ。

 

だから思うようにいかないんじゃないかなと思う。

 

人生なんてそんなに複雑なものではない。

 

出会った人に「縁」を感じたならば、
その人のことを信じているだけで良い。

 

万が一違和感が生じてきたら、自分の心に問いかけてみる。

 

必要があれば環境を変えてみる。

 

そのシンプルなことを繰り返すだけで良いのだ。

 

長い期間はかかるかもしれないけれど、それだけで徐々に変わっていく。

 

もう何度も同じことを繰り返しているけれど、
大切なことだからもう一度言うわ。

 

まずは、「目の前の人を心から信じてみる」

 

そこから始めよう。

「叱咤激励」という言葉の気持ち悪さ

僕は「叱咤激励」という言葉が大嫌いだ。

 

いや、誤解のないよう一言言っておくが、
言葉そのものは元々あるものだからどうでも良い。

 

厳密に言うと、
「叱咤激励」という言葉を当たり前に使っている人が大嫌い。

 

意見やアドバイスをもらいたい時に
素直に「アドバイスを下さい。」なら良いのだけど、
「叱咤激励して下さい!」という言葉を見かけるたびに、
なんだか引いてしまうのだ。

 

なんというか…
一見、「あなたの言葉はどんなことでも受け入れます」
というような潔さが感じられるんだけど、

 

人から「叱られたい」「応援されたい」「褒められたい」
そんな甘えが見えてしまう。

 

だから嫌いなんだ。

 

まぁ人間だし応援してもらいたいという感情を持つのは当然だとは思う。
なので、それをアピールするのも良いと思うけど、
「応援してね♪」というお願いではなく、
「強い口調で怒って欲しい」っていうのがよくわからない。

 

ドMなのか?

 

僕は他人の指図一切受けたくない人間、
ましてや命令されるなんて言語道断な人間だから、
全く気持ちがわからないんだよね。

 

特に日本人は叱られたいという感情が根付いてしまっている傾向があると思う。

 

僕は琉大在学時にとある学生団体の中で孤立していることがあった。
思い出すと辛くなるから、なるべく思い出さないようにしているんだけど。

 

その時は、僕のことを気にかけてくれているらしい人から、

 

「批判されているうちが花だよ」なんて言われたけど、

 

「は?何言ってんの?」って思ったものだ。

 

(「一番怖いのは、嫌われることではなく無関心」という意味なら
まぁわかる気もするが)

 

本当に心の底から自分のことを思って言ってくれている人は
その態度や言葉からもわかる。

 

だから、僕はそういう人の言葉ならわりと素直に受け入れるところがある。
それが感じなければ全部その人のエゴ、正義の押し付け、
クソリプに過ぎない。

 

それをある年齢の時から見抜いていた。

 

批判する人間、文句を言う人間って大抵人の話を聞いてないからな。
Twitterなどで誰か特定の人を皆がこぞって叩いているのも、「雰囲気」や「空気」もあるだろうし。
日本人は特に「村八分」みたいな傾向が強いし。

 

大抵の人が「怒られると成長する」「だから、悪いところがあったら叩く」
そう思い込んでいるのは、教育の影響なのかな?

 

その団体の人達も「辛いことがあるから成長する」と思い込んでいる人が多数だった。
加入当初はいろんなイベントを企画できて楽しいと思ってたけど、
なんだかカルト宗教みたいで気持ち悪いなと思って辞めた。

別に宗教自体を否定はしないが、
誤った価値観を信じ込んで人に害を与えることが問題なのである。

 

良い面に目をつければ良いんじゃない?と思うが。

 

でも、教育者にしろ、親にしろ、大抵悪い部分を注意するから。
その延長なんだろうな。

 

ハッキリ言って、やっていることはいじめと変わらないからね。

 

でも、その「いじめ」に負けてしまう人が多いのも事実。

 

芸能人や人気者は心無いリプが来ることもあると思うけど、
応援メッセージだけじゃなくて
毎日のように罵声を浴びせられたらそりゃ病んでしまうよね。

 

結果、謝る必要が無いことでも、謝ってしまう人だっているし。
発信や活動を辞めてしまう人もいる。

 

一方で、反抗期の子だとかグレる子とか
病んでしまう子とかが生まれてしまうのも、
結局は「誰か本気で叱ってくれる人」「自分を気にかけてくれる人」が欲しいからだ。

 

親や先生から一方的にガミガミ怒られていると、
そんな子が出てくるのも無理は無いと思う。

 

というか、すごく気持ちがわかる。

 

だから、わざと悪態をついたり、
相手を試すようなことをしたりしてしまうのだ。

 

それは厳密に言うと、「愛」を欲しているからの行動なのだろうけど。

 

決して誰かから罵倒されたいわけじゃない。

 

 

しかし、もう成人してしまったら立派な大人だ。

何もかもを他者に委ねてしまうのは問題がある。

 

大人だからということよりも、自分自身が幸せになれないからだ。

 

相手の気持ちを試すなんてことをいちいちしていても、
虚しくなるだけ。

 

自分自身も含め、結局は皆自分のことにしか興味ないからね。

 

大人なら、自分の幸せも自分自身で築いていかないといけない。

 

いつまでも過去のトラウマや物事の正義に拘っていてはいけない。
過去は過去だからだ。

 

 

俺だってジジイになっても
「世の中なんてくだらない」みたいな考えで死にたくは無い。

 

「素晴らしい世界に生まれて、俺は幸せだ」
そう思いながら死ねたら最高だよね。

 

そう考えたら、いつまでもひねくれた目で世界を見ていたらいけないと思った。

 

それに、物事の欠点ばかり目について文句を言ってばかりじゃ、
自分自身が生きていて楽しくないはずだ。

 

 

話を戻すと、

 

 

「叱咤激励」されることを待ち望んでいる人も、
「これから頑張るぞ!」と自立しているように見えるけれど、
結局は他者依存の精神が根付いている。
その精神が見え隠れしているのだ。

 

人から何かを指図されることが習慣になってしまったら、
結局のところ、自分自身も人を嫌な目に遭わせてしまう可能性すらある。

 

クソリプをかましてばかりの人間になってしまう可能性だ。

 

そうならないためには、自分自身で気づいて変えていかないといけない。

 

叱咤激励されて、
誰かに言われたからやる。

 

そうじゃなくて

 

常に自分の気持ちに従う。
常に自分でやる気を起こす。

 

やる気が起きる起きないは生理現象だし、
行動を起こすか起こさないかも自分自身だから、
自分自身が毎日を楽しく生きられるように工夫するしか無いと思う。

 

それにはワクワクすること、夢中になれることを追求すること。

 

僕も以前は依存心の強い人間だった。

 

でも今はできるだけ、自己責任だと思うようにしている。
自らがそう思うことで、他の人の言動に対してもそのような考えが持てるからだ。

 

だから、他人の顔色なんて伺わなくて済むし、
神経すり減らせてしまうほど他人に気を使わなくて済む。

 

かなりのコミュ症だったけど、

必要なことは勇気を出して人に聞けるようになった。

 

その結果、勝手な思い込みで相手を一方的に悪者扱いすることもなくなってきた。

 

今の自分があるのも、
自分の身にふりかかったことも、
全て自己責任。

 

逆に、良いことが起きたら、誰かのおかげ。
お世話になった人達に感謝の気持ちを持つ。

 

そう思うことで、より自分らしく生きられる…

 

それがわかりかけてきた。

 

何か困ったことが起きた時に
誰かに相談するのは良いことだ。

 

でも、他人に何と言われようが、
最終的な決定権を下すのは自分。

 

今の自分を本気で変えようと思った時に、
「叱咤激励の言葉」なんていらない。

 

 

「自分の好き嫌い」「やりたいことやりたくないこと」をハッキリさせながら、
目の前のことに、一生懸命取り組むこと。

 

 

やりたいこと、好きなことは気が済むまでやればよいし、
やりたくないこと、嫌いなことはやらなくたって良い。

 

 

とにかく、「今」を生きることだ。

 

 

「今の自分」や「心から夢中になれるもの」に興味がある人は、

他人の悪口を言うこと、クソリプを飛ばすことに興味がない。

 

そんなことしていても時間の無駄だからだ。

 

人生は長いようで短い。

 

少しでも楽しくなるように工夫しながら、のんびりと生きましょう。