「違和感」を無視してはいけない理由

天海夜 煌琉でござい。

 

今日は

「違和感」を無視してはいけない理由

というテーマで語っていきたい。

 

 

まず、僕は非常に嫌われることを恐れていた。

 

 

病的なまでに。

 

 

実際、距離を置かれたと感じたら

「嫌われたのかな…」

と気になってしまう。

 

 

というのも、自分が相手から距離を置く場合というのは、

大抵、相手が攻撃的だったり支配的だったり過干渉だったりなど…で

 

「本当に嫌われても構わないからとにかく離れたい」

「この人と一緒にいると、自分が不幸になってしまう」

「なんだか相手が驚異的に感じる」

 

などと判断したときである。

 

 

そのため、

自分がそのように距離を置かれると

「拒絶された」

「なんでだろう」

「あんなことしたからかな?」

などと思い悩んでしまうのである。

 

 

相手が何も言わずとも、人格否定をされたような気分になるのだ。

 

 

しかし、ここ数年は

「自分の気持ちに嘘をつかない生き方」を研究しまくっているため

「距離を置かれる」「拒絶される」「SNSでブロックされる」

などという行為も、

ストレス無く受け入れられるようになった。

 

 

逆に、僕自身も誰かと接している上で

「なんか嫌だな…」「なんか違う…」

などと「違和感」を感じたら

その違和感を最優先して、

その相手とは距離を置くことも、躊躇なくできるようになったのだ。

 

 

ただ、一口に違和感といっても、

「価値観は人それぞれ」なので、

 

自分が感じた「違和感」が

「この人はこういう人だ」と受け入れられるレベルだったり、

「この人というより、人間とはそういうものだ(自分もそうかもしれない)」

と割り切れることだったり、

もちろん、単なる誤解や思いすごしだったり

一時的にムカ着火ファイヤーなだっただけだったり

 

…などというのであれば、全く問題ない。

 

 

では、僕が

「この人とは距離を置こう」

と決断するレベルの違和感とは、

一体どれほどのものなのか。

 

 

それは、

「自分の信念を曲げて、

自分の気持に嘘をついて、

ストレスを感じてまで、

この人の価値観に合わせる必要がない」

 

と判断したときである。

 

 

つまり、僕自身の判断基準とは、

 

「相手の信念に、どうしても自分が賛同できない」

 

と感じた時である。

 

 

そこで、よくよく考えてみたら、

「自分が誰かと距離を置きたい」と思った時に、

その人のことが嫌いだからかというと、

必ずしもそうではないということがわかったのだ。

 

 

自分が「違和感」を感じるのは

相手自身がどうかというよりかは、

相手の考え、信念であることが多い。

 

 

 

 

そのため、逆に相手が僕から距離を置いたとしても、

それは必ずしも「嫌い」というわけではないだろうし、

万が一「嫌い」だからといって、

それは僕自身の価値を否定する意味でもない。

 

…ということがわかったのだ。

 

 

「相手の信念に合わせるか、合わせられないか」

「相手の価値観が合うか、合わないか」

ということが、判断基準となるのだ。

 

 

ここで大切なのは、

「自分が”相手の考え”をどう思うか」

であって、

「”相手自身”を否定しているかどうか」

ではない。

 

 

つまり、

相手の考えに賛同できないからという理由で距離を置くことは、

相手自身の人間性を、全面的に否定するわけではないのだ。

 

 

 

もちろん、

 

こちらを攻撃してくる人

こちらを尊重してくれる態度や心遣いが見られない人

権力を振りかざして、自分より弱い立場の人をいじめたりしている人

…など

 

こういう暴力的で攻撃的な地雷人間は徹底的に嫌うし、

距離を置くどころか縁を切ることにしているが。

 

 

 

 

わかりやすく動物に例えてみよう。

 

元々木の上で住むのに適した種と

土の中で住むのに適した種が

仲良く一緒に洞窟の中に住み始めたとする。

 

 

 

しかし、

元はといえば、それぞれが別の場所で生きるのに適していたから、

当然、だんだんと無理が生じてくるのである。

下手すりゃこのまま死んでしまうかもしれない。

 

誤解のないよう言っておくが

コリュ(作者)はリスさんももぐらさんも大好きですよ

 

 

そのため、それぞれが住むのに適した場所に戻っていくことにした。

 

 

 

 

 

すると、やはり元々の場所が一番住みやすく、

さらに、そこに住んでいる仲間と共生したら

皆同じような性質(価値観)であるため、

すごくウェイな気分になったり

 

かたや一人を満喫できるようになったり

 

それぞれにハッピーな毎日を送ったとさ。

 

 

 

…ということで、一件落着。

 

 

めでたしめでたし。

 

 

 

 

以上は今思いついた適当な物語だが、

なかなか理に適っていると思うし、

人間関係も同じようなものだと思われる。

 

 

ここで、種族が生き長らえることができ、

子孫をたくさん残せたのは、

自分自身の「違和感」に従ったからである。

 

 

そのため、

あなたがもし、特定の人に「違和感」を感じた時は

どうかその「心の声」を聞き逃さないでほしい。

 

 

その違和感を否定しようとするのではなく、

「なぜそう感じるのか?」と

深く心に問いかけてみてほしいんだ。

 

 

もしかしたら、その「違和感」には

あなたがより良く生きるためのヒントや、

次のステージに進むための階段が隠されているかもしれない。

 

 

「違和感」を感じたら、

それはあなた自身が発しているSOSである。

 

そのため、

「あなたが、あなた自身を知る良い機会」

だと考えれば、

むしろ違和感ウェルカムって思えるだろう。

 

 

日本で生きていると、同調圧力を感じることが多々あるかもしれない。

村八分やのけ者にされたり、いじめられたり…

それを恐れて、あなたは言いたいことを言えないのではないだろうか。

 

 

でもさ…

 

もっとわがままに生きて良いんだよ?

 

…と、僕は思う。

 

 

時代は目まぐるしいスピードで変化しているし、

人間だって本人が思う以上のスピードで成長する生き物だ。

 

 

誰かが決めた常識なんて、

きっといつかは滅びるだろう。

 

 

なぜ、そんな「誰が作ったかわからない、得体の知れないもの」にすがっているんだい?

 

なぜ、「誰かが作ったかわからない、得体の知れないもの」を

当然だと思っていて思考停止しているような人たちに

「嫌われたくない」と思うのかい?

 

そんな人達は、あなたにとって

「自分の信念を曲げてまでも尽くしたい、本当に大切な人たち」

なのか?

 

 

無理に周りに合わせようとして、

周囲の期待に応えようとして、

あなた自身の「違和感」を否定しないでほしい。

 

 

なぜなら、それはあなた自身にしか気づくことが出来ない、

「大切な宝物」なのだ。

 

 

権威ある学者だってお偉い政治家だって

その宝物に気づくことは出来ないだろう。

 

誰にも気づかれることが無ければ、

命が尽きるまで埋もれたままになってしまうのだ。

 

 

その宝物には

「世の中の既成概念を壊して、皆が幸せに生きられるアイデア」

が眠っているかもしれないのに。

 

 

これは非常にもったいないことだ。

 

 

そのアイデアが表に出て、世の中に広がっていくためには、

あなたが自分自身で気付いて、

その「違和感」という感情を呼び起こしていくしか無いのだ。

 

つまり、

あなた自身が、自分自身に嘘をつかずに生きていくことは

個人的なことでは決して無いのだ。

社会的な視点から見ても、とても大切なことなのだ。

 

 

たしかに、周りの人だって

それぞれの常識や価値観、信念を信じて生きている。

それを否定する必要はない。

 

 

そのかわり、

あなたは自分自身の常識や価値観、信念を守っていく必要がある。

 

誰に否定されたとしてもね。

 

 

なぜなら、

その信念は、あなたにしか守れないものだからだ。

 

それは、多数決で決まるものじゃないんだよ。

 

 

その信念を守るかどうかは、あなたが決めて良いことだ。

 

 

その信念が歪められる時に感じる「違和感」で

あなた自身の今後の生き方を決めることができる。

 

 

だから、その「違和感」は絶対に見落とさないでほしいし、

あなたの信念は、誰がなんと言おうと

絶対に守らないといけないんだよ。

 

 

 

「違和感」はしばし不安な感情を伴う。

他者に対して疑心暗鬼になることもある。

 

 

しかし僕は、「違和感」を

「僕が、僕自身を知ることができる機会」

だと思うようになってからは…

 

むしろ「違和感」を感じたら、

 

それは成長している証で、より自分自身が飛躍できる良いチャンスだ

 

そう思うようになったよね。

 

 

だから、他人から距離を置かれることで

自分を責めたり卑下したりする必要なんて全く無い。

 

相手は相手にとって心地良い生き方をしたいから、

こちらの考え方に迎合できなかっただけ。

 

 

嫌われても、嫌がられても仕方ない。

 

 

もっと自分の心に素直になって

自分の信念を貫いた生き方をしよう。

 

 

そう思ったんだ。

 

 

 

というわけで、「違和感」に関して

以上の内容をまとめると…

 

・あなた自身の信念を曲げてまで

違和感を感じる人に付き合う必要はない。

 

・あなたが誰かに「違和感」を感じたら、

それは自分の心が発している警告(SOS)だ。

その時はあなた自身の「心」に耳を傾けて、

あなた自身の「心」が発するメッセージに、素直に従おう。

 

・逆に、あなたから誰かが離れていったとしても、そっと見逃してあげよう。

その人はその人で大切にしているものがあり、

あなたがそれをコントロールする権利はない。

もちろん、あなたが誰かにコントロールされる義務も、全く無い。

 

・距離を置かれたからといって、必ずしも嫌われたとは限らないし、

あなた自身の価値観を否定されたわけではない。

ただし、あなた自身の大切なものを攻撃してくる人とは

今後、金輪際関わらなくて良い。

 

・「違和感」を感じたら、あなた自身がより成長できるチャンス。

その時は、環境を変えたり、新しいことを始めたり…

軌道修正していきながら、

「違和感のない」生き方を目指していこう。

 

 

 

ちなみに、今回の関連する内容として、

SNSのブロックに関して、以下のような考えも書いているので、

もし良ければこちら↓もご参考いただきたい。

 

 

 

 

「NO 違和感 , NO LIFE」

 

 

「違和感」がなければ人生じゃない。

 

 

「違和感」を、楽しもう。

悪口を言えば言うほど惨めになる理由

妖怪・性別知ラズ

天海夜 煌琉(あまみや こうりゅう)見参!!

 

 

今回は

「悪口を言えば言うほど、惨めになる理由」

について考えていきたい。

 

 

 

 

僕はひっじょーーーーーーーーに寛大な性格なので

これまでに誰かの悪口を言ったことがない。

 

 

 

 

…といえば、もちろん嘘になると思うが(←オイ)、

なるべくなら悪口を言わないように意識はしている。

 

 

 

あなたがもし、どうしても人の悪口を言いたくなったら、

冗談交じりの皮肉やブラックジョークなら

笑いを生み出して生産活動にもなるので、良いと思う。

 

そこから新たな発見もあるかもしれないしね。

 

 

 

あと、誰かに対する悪口や批判により

あなた自身が学べることがあるのなら、

その経験から得た学びの内容をハッキリさせることで、

あなた自身が成長することもあるかもしれないよね。

 

 

 

それに対して、

誰かをただ罵るだけの会話、

文句や悪口だけを延々と言っている状態というのは

ハッキリ言って「悪」でしかない。

 

 

なぜなら、悪口というのは、

内容自体がネガティブなのはもちろんのこと、

視野が狭く一方的な見解により発せられていることが多いからだ。

 

 

いわば思考停止の状態なのだ。

 

 

思考停止からは何も生み出されない。

 

 

 

また、悪口を言うことのデメリットは、それだけではない。

 

 

「悪口を言うこと」があなた自身にとって毒なのは、

意識・無意識にかかわらず、

あなた自身の「とある感情」を無視している、

もしくは心の奥底に追いやってしているからである。

 

 

 

大抵、悪口というのは、

人の嫌な面が目についたり、

あなた自身が不快な思いをしたりした時に

発せられるものである。

 

 

その発言には当然、様々な形とはいえ、

「怒り」が伴うものだ。

 

 

これら全ての「怒り」の本質として

その「とある感情」が共通している。

 

 

 

それは、「嫉妬」である。

 

 

 

つまり、あなた自身の「嫉妬心」から目を背けたまま、

人の悪口を言っているということだ。

 

 

「嫉妬心」に向き合わないということは、

「あなた自身の本心と向き合わない」ということだ。

 

 

 

 

上の図のように、

悪口を言うと、一時的には気分がスッキリするが、

あなたの心の奥底に渦巻いている嫉妬心は

消えないままだろう。

 

 

なぜなら、その嫉妬心の影に隠れた

あなたの本心の願いや要求が

解決されていないからである。

 

 

あなたの本心がわかるのはあなただけだ。

 

 

本心の叫びにあなた自身が気づかないと、

この「嫉妬心」があなたの感情をコントロールするメイン装置として

半永久的に悪さをし続けることだろう。

 

 

 

さて、ここで、

「なぜ人は他者に対して嫉妬心を抱いてしまうのか?」

を考えてみよう。

 

 

 

その理由はぶっちゃけ、その人が報われていないからである。

 

 

もしくは、「自分ばかりが負担を強いられている」などと

被害者意識に囚われているからである。

 

 

 

例えば、あなたが真面目に仕事しているのに、

サボってばかりの同僚がいて、

しかも待遇も給料もあなたより良かったら

それは確かに嫉妬するかもしれないね。

 

 

怒りを感じて当然だ。

 

 

しかし、そんな時こそ、学びのチャンスだと思うことが肝心だ。

 

 

相手のことも、あなた自身も責めてしまうことなく、

「誰かと比べてしまっているあなた自身」に、いち早く気づこう。

 

 

もしかしたらその怒りや嫉妬心の中に隠れている、

あなたの無意識の本音は、こう言っているかもしれない。

 

 

「あの人は私よりも能力があって羨ましい」

「沢山お金もらえて良いなー」

「この会社こんな体制でよく社会で立ち回れているよね」

「俺だって運が良ければ、もっと認めてもらえるはずなのに」

 

…といった具合にだ。

 

↑俺もこんなこと言ってみてぇわ。

 

 

これらの本音に気づくことなく、

怒りがあなた自身を支配してきたら、

その怒りを相手や誰かにぶつけるのではなく、

 

 

一度冷静になって、あなた自身の本心に耳を傾けることが

重要ではないだろうか。

 

 

 

 

一方、人によっては「嫉妬」ではなく、

悪口の対象となる人の存在や発言が地雷となる場合、

その人がいるだけでストレスを抱えてしまうこともあるだろう。

 

 

その場合は、「悪口の対象となる人」の嫌な部分を

あなた自身に投影しているだけである。

 

 

相手に対して嫌悪感を覚えている部分が、

あなた自身の中にもあるから、悪口を言うのである。

 

 

例えば、

ランチをどれにするか決められなくて迷っているAさんを見て

Bさんが「早くしろよ!」とイライラしてしまう。

 

 

それでBさんが「あいつのウジウジしている部分が嫌」って

誰かにAさんの悪口を言うかもしれない。

 

 

ここで、Bさんが怒りを感じた原因は、

Bさんが「せっかちでイライラしやすい性質だから」とは限らない。

 

 

もしかしたら、Bさんが元々優柔不断な人である可能性も高く、

Aさんの嫌な部分を自分自身の中に見出している場合もあるのだ。

 

↑…………えっと…ソーキもてびちも豚肉なのだが…

 

 

その「嫌な部分」は過去の自分なのか、

現在の自分なのかはわからないけれど。

 

 

どちらにせよ、この出来事を客観的に見た時に、

「BさんがBさん自身を受け入れていない。」

と判断することも可能である。

 

 

自分自身を正しく愛せていないってことだね。

 

 

「他人は自分自身を写す鏡」だというが、まさにそれである。

 

 

自覚しているか否かに関わらず

あなた自身が抑圧させているあなた自身の嫌な部分を

相手の言動の中に見出しているということだ。

 

 

その事実を棚に上げて、

Bさん自身が自分の中にある「嫌な部分」を直視しないようにして、

「Aさんのこういうところが嫌」と

クレームをつけているだけであり、

根本的な原因を解決していないのである。

 

 

 

 

そのため、あなたが相手に対して嫌悪感を覚えたら、

悪口を言う前にまずはすべきことがある。

 

 

 

それは、

あるがままのあなた自身を受け入れること。

 

 

相手の全てを許せるようになれるには

まず、あなた自身の中にいる、

「あなた自身の小さな子供」を

優しく抱きしめてあげよう。

 

 

「自分には悪いところがある!」

「ここはダメ!」

「ここは直さなければいけない!」

 

…などと潔癖になる必要なんて全く無い。

 

 

自分にも他人にもダメ出しばかりしていたら

自分自身が辛くなるだけだ。

 

 

誰かの悪口を言うということは

あなたの中にいる「小さな子供」を傷つけているのと同じなのだ。

 

 

子供が求めているのは、海よりも深い愛情と、受容だ。

 

 

彼らのSOSにちょっとでも気づいたら、

人の悪口を言ってる場合じゃないよね。

 

 

彼ら…つまり「あなたの中にいる子供」を救うのが先だ。

 

 

 

 

 

最後にまとめると…

 

・言っても仕方がないだけの愚痴や悪口は、出来るだけ言わない。

 

・もしどうしても言いたくなったら、言う相手は厳選しよう。

 

・批判だけで終わらせず、何か学びを得るような形で考えていく。

 

・ネタとして冗談交じりに話すか、

 ブラックジョークで笑い飛ばすのは有効な方法。

 

・悪口を言うメカニズムは、「相手の嫌な部分≒自分の嫌な部分」を見出し、

 相手への嫌悪感を覚えている状態。

 さらに、相手を嫉妬心が湧き上がっている状態。

 

・嫉妬心が湧き上がったら、あなた自身の心が発している「本音」に気づこう。

 

・相手の言動に怒りを感じたら、

 「私は自分自身を愛せているだろうか?」と考えてみよう。

 

・自分自身にダメ出ししなくなれば、他人にもダメ出しをしなくなり、

 あなた自身が楽になる。

 

・どうしても耐えられない相手ならば、距離を置くなどの対策を考えるか、

 誰かに相談すること。

 

 

あなたも誰かに怒りを感じて悪口を言いそうになったら、

言葉の裏にある「あなた自身の本心」を探ってみよう。

 

過去の出来事でトラウマの原因となるものがあるのなら、

そこからヒントを得てみるのも良いだろう。

 

 

もしかしたら、その怒りは相手の問題じゃなくて

実はあなた自身に対してなのかもしれないし、

 

「本当はこんなルールに従いたくないんだ!」

 

「私はなんでこんな不遇を強いられているんだ!」

 

…などという、社会の仕組みそのものに対してかもしれないしね。

 

 

 

とはいえ、我慢は禁物。

 

 

あなた自身が気持ちを整理したり、

考えていることをまとめたりする目的ならば、

誰かに愚痴を聞いてもらうことは決して悪いことではない。

 

 

信頼できる友人に話をするか、

友人がいないのであれば、

全く無関係の第三者に相談するのも良いかと思う。

 

 

誰かの愚痴や悪口ではないけれど、

実際僕も自分自身の「性別違和」に苦しんでいた時は

「全く無関係の第三者」に相談したからね。

 

 

知らない人の方が自分のことを話しやすいので、

その点ではとてもおすすめ。

 

 

 

重要なのは、自分一人で何もかも抱え込みすぎず、

誰かへの怒りで、自分自身を傷つけないこと。

 

 

たとえ世間から悪口や批判の嵐を受けて大災害状態になったとしても、

「あなたの中にいる小さな子ども」は

何としても守り抜きましょう。

 

 

他にも、「悪口」や「他者からの非難」をテーマにした記事を

過去にはいくつか書いているので

もし良ければ参考にしてみてね。

 

 

あなたの「地雷」を「宝」に変えてしまう方法

狐と狸の両性具有妖怪・天海夜 煌琉でござい。

 

 

最近では、何か怒りを感じたりイラッと来たり

負の感情が湧き上がるようなことや気になることが起きても

 

「これは学びだ、勉強だ」と思ったり

「これは自分にとって必要なことだから起こった出来事だ」と言い聞かせたり

「この人はこういうところがある」と諦めたりすることで

 

自分の感情をコントロールしていた。

 

 

 

そのため、以前の「ウニみたいにトゲトゲした自分」と比べれば

自分や他人をあるがままに受け入れられるようになり

過去のことをズルズルと引きずらなくなってきたし

無意味にピリピリすることもなくなってきた。

 

 

 

 

しかし、本日久々に地雷案件というか

朝から夜までずっとモヤモヤが消えない状態が続き

以前の「トゲトゲウニ」な僕に戻ってしまった出来事があった。

 

 

 

 

その内容はというと、

 

先日上げた記事の話とも関係する。

 

 

 

上の記事で

 

「コリュさんみたいに怒らない人が羨ましい」

と言ってきた人が

まーーーた僕に同じことを言ってきたのだ。

 

 

「私、コリュさんみたいに(怒らない人に)なりたい」

「いっつも穏やかだし何言われても文句一つ言わない」

「次生まれ変わったらそうしよ!コリュさんみたいになーーーろう!」

 

 

多分、この文章だけで見ると

僕がこの言葉にどれだけ苛ついたのか

多くの人は理解できないかもしれない。

 

 

しかし僕は

 

 

「黙れク○BBA。くだらねーことほざいてる暇があったら仕事しろ。」

 

 

という口汚い言葉が喉元まで出そうになったほど

心の中でブチ切れていたのだ。

 

 

 

その言葉を言ってきた人は、

上の記事でいう僕の「A面」だけで僕の全てを判断しているらしく、

「表面的な僕の性格=本来の僕の性格」

という、自分に都合の良い解釈をしているようだ。

 

そのため、僕のことを「怒らない仏のような人」と思っているのかもしれない。

 

 

 

しかし、残念なことに、僕は元来エベレスト並にプライド高く我が強い。

(↑たまたま読んだ誕生日の本にそんな感じのことが書いてあったw当たってるw)

 

その反面、尊敬されたい気持ちが強いため

人から嫌われたくないという願望を持ってしまってもいる。

 

それ故、過度に周囲に気を使うので、優しいといえば優しいかもしれないが

どちらかといえば「人間嫌い」が根底にあるため

他人との深い関わりを面倒臭がって避けてきたし

無駄な争いでさらに自分が傷つくなら我慢したほうがマシと思い続けてきたし

未だに自分でも他人とどう接したら良いのかよくわからない部分がある。

だからあまり怒らないし、怒れない。

 

 

そのため、面倒な輩も寄ってきやすく、

都合の良い人と思われたり、舐められたりされやすかった。

これは今なお続く、自分の中での悩みの種であり、

思春期など一時期は「俺に近づくな」オーラを放っていた。

そのおかげでだんだんと感情を表に出せるようになり、

「敵」と認識した相手には怒りを露わにし、口論が出来るようにはなった。

 

 

しかし、過去の経験で、こちらには都合の良いように扱ってくるのに

自分が勇気を出して怒ったり言い返したりしても相手が反省してくれず、

かえって逆ギレされたり、人格否定をされた経験をたくさん重ねてきたので、

(しかも残念なことに、原因は家族でもあった。)

「怒っても無駄」、「何を言っても無駄」

「摩擦を起こすだけエネルギーの無駄遣い」

「人間ってそういう生き物だから」

みたいな諦めの精神が身についてしまったのだ。

 

 

そんな僕にとって他人からの「怒らない」という評価は

どうしても皮肉にしか聞こえないのだ。

 

 

精神的に病みながらも、

今の自分は血の滲むような努力で築いてきたもの。

 

 

「お前に何がわかる?」とまで思ってしまうのだ。

 

 

地雷オブ地雷なのである。

 

 

仮に、同じように僕のことを「怒らない」「大人しい」と解釈している人でも

 

「コリュさんはあまり喋らないし、腹の中では何を考えているのかわからないので、

なんか話しかけにくいし、苦手だ。」

 

という印象を抱く人がいたとする。

 

このような意見のほうが

まだ客観的で「なるほどなぁー」と思える。

 

 

 

つまり、

 

「肯定だろうか否定だろうが、

自分のことを表面だけではなく、

その人なりの視点で分析してくれる」

 

それ自体をありがたいと思えるようになった。

 

 

逆に、土足で踏み込んでくると言うか

表面だけ、一部だけで全部知ったような顔をしてくる人はすごく迷惑。

 

 

肯定、否定に関わらず

土足で踏み込まれる感じの一方的な意見や要求、

完全に的はずれな言葉は基本的に嫌なのである。

 

 

仮に肯定意見だっとして、

その意見を言った本人としては「褒めている」つもりなのかもしれないけれど、

僕自身、「嫌われる勇気」の影響でアドラー心理学を取り入れるようになり、

「”褒める”という行為自体が上から目線で失礼な行為だよなー」

って思うようになってきたし、

基本的に他人の”人格”に対して”褒める”ことはあまりしない。

その人のブログや書籍などを読まない限り、

過去の経験や心の中などわかるわけないからである。

 

 

※逆に、「相手の印象について、良いと思った部分を相手に伝える」だけなら

失礼にはならないと考えている。

その辺の線引が難しいなとは思う。

 

 

 

でも、こうやっていろいろ書き出すことで

「なぜ地雷なのか?」

という理由がわかってきた。

 

 

恐らく、僕もそうなのだが、

世の中の多くの人にとって

原因は家庭、学校だな。

 

 

つまり過去のトラウマだね。

 

 

 

あなたにもきっとあるはずだ。

 

 

他人にはきっと理解出来ないであろう、

でも絶対に触れられたくない地雷、

埋めたことすらも思い出したくない地雷が。

 

 

 

その時は一度冷静になって

 

「なぜ私はこんなことで怒るんだろう?」

「その原因は何?」

「誰のどんな言葉に反応したの?」

「過去に同様なことをしてきた人は誰?」

「その時あなたはどんなことを思った?」

 

 

…というように、感情を深掘りしてみると良い。

 

 

 

「真面目な良い子を演じ続けなきゃいけなくなり、自己主張ができなくなってしまった。」

「授業中に指されて、答えを間違えてしまい皆に笑われて恥ずかしかった。」

「周囲の期待に答えようとしたけれど、落胆させてしまい自分はダメだと思った。」

 

など、過去の経験が思い出されて、

そこからヒントが得られるかもしれない。

 

こういった出来事があなたの「地雷の原因」となっているはずだ。

 

 

そういった出来事から

「真面目でいないといけない」とか

「失敗しちゃいけない」とか

「周囲の期待に答えなくちゃいけない」とか

 

自分に対する脅迫感が地雷となり、

 

「私はこう生きたい!」という

本来のあなた自身とのギャップを生み出しているのかもしれない。

 

 

このように、「地雷の原因」がわかったら

そこからあなた自身を遠ざけるように

徐々にでも良いから、あなた自身を開放してあげると良い。

 

 

「真面目じゃなくても大丈夫な自分」

「失敗しても大丈夫な自分」

「期待に答えなくても大丈夫な自分」

 

 

こんな感じで悩み続けてきたことに対して、

真逆の自分を受け入れてあげられるようにしよう。

 

 

ただし、その際には「地雷」の形成に関与してきた人を責めてはいけない。

 

 

仮に原因はその人だったとしても、

「地雷」を作り出したのは他でもない、あなた自身だからだ。

 

 

逆に言えば、自分で作り出した「地雷」は自分で「取り除く」ことが出来る。

 

 

心の何処かに埋められたあなたの地雷。

 

 

その埋めた場所がどこかわかっているのは、あなたしかいないからだ。

 

 

また、「地雷を取り除く」ということは

あなた自身の劣等感と向き合うことなのだから

時に「したくない」ことも「する」必要があるかもしれない。

 

 

地雷だからこそ、向き合うのが怖くて今まで避けてきた。

 

 

しかし、地雷を何度も踏まれて爆発しまくって

傷ついた心をそのままにしておくのは

今後も似たような事象を引き起こしてしまうことだろう。

 

あなたの心がさらに傷ついてしまうかもしれない。

 

 

だからこそ、今、ちゃんと向き合って、

癒やしてあげることが大切だ。

 

 

 

 

…しかし、今回の「地雷」な出来事は最終的な結論として、

「ありがたい出来事」だと思うようにはなった。

 

 

最近、僕自身が「感情をコントロールできるようになった」

と思えるようになってきたからか、

ちょっと自惚れていたところもあるのかもしれない。

 

 

今回の出来事はそれを戒める意味でも必要だったのかもな、って思う。

 

 

「地雷がある」ということは、

「まだまだ自分にとって課題がある」ということなのだ。

 

 

以前よりもだいぶ改善されたとはいえ、

まだまだ「本来の自分じゃ愛されない」という恐怖心があるのか、

行動にブレーキをかけているのかもしれないね。

 

 

そうやって問題にぶち当たるたびに、

「どうしたら自分自身が生きやすく、やりやすくなるのだろう?」

「どうやって他人とコミュニケーションを取れば誤解されないんだろう?」

と悩みだしたらキリがなく、

ネット上で同様の悩みを持っている人のブログや掲示板などで

答えを探そうとしてしまうのだ。

 

 

しかし、結局答えなんて見つからず、

さらにわからなくなって悩んでしまう。

 

 

 

そこで行き着いたんだ。

 

 

「答えなんてない。」

 

「自分自身が、今の自分を愛せば良いんだ。」

 

って。

 

 

今のあなたのままでOK。

間違ってもOK。

嫌われてもOK。

 

 

あなたも自分自身に「OK」サインをたくさん出していこう。

 

 

 

行動に制限をすることがなくなれば、

モヤモヤしていた感情がシンプルスッキリになっていき、

「地雷のありか」もわかるようになるだろうし、

最終的に「地雷のありか」を

「宝のありか」へと変えることも出来るかもしれないんだ。

 

 

「宝」はもちろん「あなた自身の課題」だ。

 

あなた自身をさらに魅力的な人物へ

成長させてくれる鍵となるものだ。

 

だから

 

「地雷」と思われる出来事と遭遇したらむしろラッキー。

 

と思わなきゃいけないね。

 

 

「地雷?よっしゃ!100億くらい埋まってるかも?」

 

そう思えるくらいまでは、強くなりたいものだ。

 

 

 

さて、今回は「”地雷”を”宝”に変えるための方法」について

自分の経験も交えて語ってみた。

 

まとめると…

 

あなたもモヤモヤするような「地雷」が見つかったら

ひとまず、その感情を客観的に眺めて、

自分自身に質問をしていきながら、

過去の出来事や感情を深掘りしていこう。

 

 

そして

「どうしたら、どんな自分になれたら、

その地雷で自分がこれ以上傷つかないのか?」

そこから行き着いた解決方法を徐々にでも実行していく。

 

 

ぜひ、憎むべき「地雷」を、

かけがえのない「宝」へと変えてみてね。

負の感情も他人の攻撃も気にならなくなる魔法の言葉

最近はついイラッとしてしまう自分に目を向けて
これはいけないと思い、いろいろ対処するようにしている。

 

その場合は一旦冷静になってこう思うことにしている。

 

「自分はまだ自分の問題が解決できていない。」

 

この言葉の意味は明白で、自分自身がまだ未熟だから
他人の言動によって自分の感情が左右されるというもの。
怒りや悲しみなどの「負の感情」が湧き上がってきてしまうのだ。

そうならないように日々学んで成長していきたいよね。

 

一方で、自分の周囲において嫌な言動をする人は最近では少なくなったけど、
街中だとどうしても赤の他人と関わることになるわけだし
理不尽な思いをするケースだってあるわけだ。

 

相手の悪意ある言動の被害を受けてしまうことだってあるだろう。

 

 

その場合も同様に、

 

「相手はまだ相手の問題が解決できてない。」

 

と思えば良い。

 

 

自分自身で湧き上がらせている負の感情も
相手からの悪意ある理不尽な言動も
自分の成長のチャンスになるわけだ。

 

そう考えると、傷つくことや不快な気持ちになることを
過剰に恐れずに済むのでは?と思う。

 

人は本来、人を傷つけることなんて出来ない。

 

ナイフなど物理的に人を傷つけることは出来るし、
実際刺されたら怪我するし下手したら死ぬし
刺した人は逮捕されるわけだが…

 

一方で、悪口や非難、その他罵詈雑言など負の要素を含む
「言葉のナイフ」というものは…

 

「避けられる」

「ガードできる」

「刺さってもすぐに傷口を消せる」

 

などという選択肢だって存在するわけだ。

 

考えてみたらいくらでも自分でどうにかできるんだから、
実際に刺されるよりかはマシだよね。

 

 

ナイフに催眠術かけようとしたけどダメだった…。
 

 

つまり、他者からの物理的でない、「精神的な暴力」に関しては
自分自身で「なかったことにできる」のだ。

 

こうなると
「言葉のナイフを刺した奴を養護するのか」
と思われそうだが、そうではない。

 

自分の人生を楽しく生きるか、自分らしく生きるかどうかについて、

「自分の人生は自分で決めるもの。」

という考えがある。

 

 

「相手が暴力的な言動をした」という事実はあったとして、
それを実際罪に問うべきものなのかどうかはとりあえず置いておいて、

嫌な出来事に対して自分をどんな人物像に仕立て上げるかは、
他の誰でもない、自分の人生に対する責任なのだ。

 

 

仮に「救世主」があなたの元に現れて心の傷を癒やしてくれたとしても、
あなたの生き方や考え方について変えることが出来るのは、
他の人じゃできないからね。

 

 

救世主がいないと生きられない、弱々しい「村人A」として生きるのか、
世の中や特定の人物に対する恨みつらみが消えずに、「悪の化身」と化して世界を闇に葬るのか、
救世主のおかげで自分は助かった、じゃあ今度は自分が人々を助けようと
「ヒーロー(ヒロイン)」のようなカリスマ的存在として生きるのか

 

…などなど

 

全てあなたが自由に生き方を決められるのだ。

 

 

もしあなたが「傷つかない」という選択肢をとれるようになりたいというのであれば、
心を鍛えていく必要がある。

 

 

筋肉はジムや日々のトレーニングで鍛えられるが
「心を鍛える」というのはジム通いじゃできない。

 

 

ではどうすればよいのかというと、

 

「少しでも多くの言葉や価値観、物の見方を知っておく。」

 

必要がある。

 

 

ちょっとしたことでも傷つく人もいれば、
何を言っても無反応な人がいるように、
一つの物事にしてもいろんな解釈と反応、考え方があるわけだ。

 

だったらできるだけ反応しないほうが良い。

 

その方が精神衛生上自分が楽になるのである。

 

そのためには

相手を「人間ではない、一つの現象」

みたいにバッサリ捉えてしまうというのもアリだ。

 

 

 

こちらの書籍でわかったことだが…

 

自分がマイナスの感情を放つから
失敗して怒られた時にも相手の感情を逆なでさせて
ますます怒られてしまうことになるのだ。

 

それに自分が影響を受けて病んでしまうのでは
自分自身が一番苦しくなるだけ。

 

先に自分で反省して自分の中で解決してしまえば、
あとは怒られても平謝りしておけば良いだけ。
相手も平然な人には反応しないからそれ以上怒られることはない。

 

「失敗しちゃいけない」
「ちゃんとやらなきゃ」
と萎縮したり緊張したりしてまた失敗してしまう、
また怒られるということも避けられる。

 

(↑引用するのが面倒だから僕自身の言葉で書いてるけど、
書籍のほうが素敵な文章なので、気になる方はぜひ書籍を読んでいただきたい。)

 

 

相手からの一方的な価値観の押しつけ、
相手からの理不尽かつ暴力的な言動、
相手のミスや勘違いなのに自分が怒られた、

 

…などというのであれば
なおさら「反応しない」ことが必要になる。

 

 

だから、この言葉が意味をなすのだ。

 

「相手はまだ相手の問題が解決できていない。」

 

あなたが自分の感情を自分でコントロールできるのと同じように、
相手が負の感情を生み出すのかどうかも相手が決めることである。

 

それが出来てないということは相手の課題でもあるし、
本来、あなたには関係ないのだ。

 

 

それを受け取ってしまうと、
「相手の課題」を「自分の課題」にしてしまうことになる。

 

 

僕も正直な性格だから
嫌いな人間には基本塩対応だったり、
明らか避けてるの(苦手に思っているの)見え見えだったり
悪気なくても誤解されるような言動もしてしまったりしたから
過去の人間関係においてトラブルも多かった。

 

 

まぁやたら協調性やルール、一方的な価値観を押し付ける日本社会が異常なだけであって
トラブルが全く無いという人の方がむしろいないのかもしれないが、
相手を刺激させない程度のスルー力は身に付けたいし、
つまらない衝突は避けていつでものらりくらり生きていたいよね。

 

そのためには「自分」と「相手」の境界を
明確にしておかないとね。

 

 

「相手の問題と自分の問題を切り分けて考える」

 

このことについても今後深掘りして詳しく説明できたらと思う。

 

 

あなたが「人は人、自分は自分」といったブレない考え方や、

どんな言葉もヒラリとかわせるスルースキルを身に着けたいというのであれば、

このような書籍↓も参考になるかと思う。

 

 

 

 

のらりくらりと。

(↑最近、気に入ってる言葉らしい。)

負の感情には幸せになるためのヒントがある

今、KindleUnlimitedで読み進めている本があり、

途中ではあるが大変参考になった箇所があったので、

メモ代わりに書いておきたい。

 

 

その本というのは、

「サラとソロモン」というタイトルの本だ。

 

 

小説のように読めるので、

作中での少女とフクロウ、周囲の人間との関係性を追いながら

生き方について学ぶことが出来る。

 

 

こんな博識なフクロウが身近にいたら面白いのになぁ。

 

 

30%くらい読み進んだと思うが、

今のところ一番印象的なのは、

 

 

 

「自分が嫌だと感じることは、

自分が心地よいと思うことを見つけられるチャンス」

 

 

だということ。

 

 

僕自身の解釈であるので、本書内での表現はやや違うと思うが、

ほぼ似たような感じだと思う(←適当過ぎ)。

 

 

 

↑以前のブログでも書いたが、

何か良くない感情が起こったら、

それは自分を成長させるチャンスだと思えば良いことはわかった。

 

 

しかし、それとはまた別に、

自分の「心地よさ」を見つけるという作業もできるんだなということが、

この本を読んでいてわかったのである。

 

 

そう思うと、ネガティブな感情も少しはウェルカムだと思えるのではないか。

 

 

 

決してそれはポジティブシンキングなどではなく、

「少しでも自分が楽に生きられるようにするために、

楽になれる思考を習慣づける」

ということである。

 

 

まとめると、

 

 

心のなかにネガティブな感情が湧き上がってきたら、

客観的にその感情を自然現象として眺めるとともに、

自分のニーズを探ること

 

 

である。

 

 

↑自然現象のイメージ(山口県・秋芳洞にて)
 

 

上記のリンク先にある記事で、

負の感情はブラックホールのようなものと表現したが、

滝のようなもの、激しい水しぶきのようなものを想像するとわかりやすいかも。

 

負の感情を自然現象として客観的に眺める…

 

これができたら人としてだいぶ成長しそうだな。

 

 

嫌な感情は、もちろん好きじゃないけど

少しでも上手く付き合えるようになろう。