人から信頼される人物になりたいのなら「正論」は言うな。

本日は

 

「正論ばっかり言っていると信頼されなくなっちゃうゾ☆」

 

というテーマで語ろうと思う。

 

 

…この言葉、

なんか自分へのブーメランみたいにも見えるので、

自戒を込める意味でも、書く!!!!

 

 

さて、僕は前回の記事で

 

「悪質な営業マンにしつこくされて不快な思いをした」

 

という話をした。

 

 

その時の記事がこちら↓

 

 

実は以前も似たような経験がある。

 

 

その時もかなり悪質で

そいつは22時頃に家へ訪れてきたのだ。

 

 

夜だぜ?夜。

人によってはもうスヤァ…の時間帯だろ。

俺だって今この記事書いてて猛烈に眠いわ!!!!

 

 

まぁドアを開けて出てしまった自分も自分だが

その時の僕は超真面目だったので

 

「家にいて返事してしまった以上でなきゃいけないのかな…」

 

って思ってしまったからだ。

 

 

その後、30分もの時間を何度も何度も同じ質問攻めに遭うことになり、

その時もキレながらしつこい相手に辟易することになった。

 

 

結果、僕もかなり頑固で負けず嫌いなものだから

絶対に相手の言いなりにならないと決めていて、

最終的には名刺だけもらってなんとか帰ってもらったのだった。

(もちろん、その名刺を元に翌日苦情を入れた。)

 

 

その後もイライラモヤモヤの感情が収まらなかった。

 

 

不快な感情もだけど、恐怖心もあり

すぐさま信頼できそうな友人に相談した。

 

 

そもそも夜遅くに家へけしかけてきた上に

30分もドアの前に居座るなんて

どう考えても犯罪である。

 

 

しかし、その「信頼できそうな友人」に相談したのは間違いだった。

 

 

その人もまた「自分なりの正義」を言ってきて

あまり寄り添ってくれるような感じではなかったのだ。

 

 

実はこの人、過去に僕がパワハラ同然で派遣先を切られて相談したときも

全面的に味方についてくれるような感じではなかった。

 

 

なので僕は決めたのだ。

 

 

「正論しか言ってこない人」には

大事なことはもう相談しない。

 

 

って。

 

 

…もしかしたら

あなたもそういう経験あるのでは?と思う。

 

 

仕事や学校、家庭…など嫌な思いをした時に

 

「この人なら話を聞いてくれそう」

 

と思って相談した相手が

 

 

「こちらの話を聞いてくれない。」

「相手が自分のことばかり話してくる。」

「一般的な常識やルールを押し付けてくるばかり。」

 

 

そんな人だとがっかりしないだろうか。

 

 

その人に対して「失望」という感情が生まれるだろうし、

「この人はこうなのか…」

「じゃあ自分とは合わないな」

という考えに行き着いて、

結果、心を閉ざしてしまう。

 

 

そうやって距離を置くようになり、

過去には「疎遠になっていった人」もいただろうし

 

 

逆に自分はなんとも思っていなくても

「疎遠になってしまった」人もいるかもしれない。

 

 

ただ、僕もどちらかと言えば

「正論を言う」タイプだったかもしれない。

 

 

元々超真面目だったので

会社や学校、世の中のルールに対して

割と従順な方だから

「ルールに背いて好き放題やってたり

無頓着だったりいい加減だったり

その結果自業自得な出来事を招いてしまった人」に対して

内心意地悪したくなるというか、疎ましく感じてしまうのは

ものすごくわかる。

 

 

真面目な人ほどある意味「融通がきかない」んだよね。

 

 

だから本当に困っている相手なら全力で助けるけど、

ちょっとでも「相手も悪いな」という要素があると

冷淡にあしらってしまう、みたいな。

 

 

まぁ確かに、そういう「真面目な人」って

言ってることは正しいんだよ。

 

 

決して間違ってはいない。

 

 

でも大抵

その「正しさ」が自分基準じゃないんだ。

 

 

「世の中」に対して同調しているだけであって

自分の考えがない。

 

 

だから目の前の相手やその時の状況に柔軟に対応できないし、

なにか意見を求められても「言えない」のだ。

 

僕の場合、自分自身を「価値がない」と思い込んでいたから、

自分の意見を言うのが苦手だった。

 

 

面倒くさい

自分の身を守りたい

誰かを傷つけたくない

 

 

そういう感情で「ルール」を優先させていたかもしれない。

 

 

少なくともルールを守って「正論」を言っていれば、

それが「隠れ蓑」になるから。

 

 

しかし…

 

 

何を聞いても

 

「ルールだから」

「そういう決まりだから」

 

の一点張りって果たしてどうなのだろうか。

 

 

たとえばあなたが何か困ったことが起きて、

相手に相談をしてそういう答えしか帰ってこないと、

その人の人間性が薄っぺらく感じてしまうだろう。

 

 

そうやって信頼を失っていくんだよね。

 

 

世の中はルールや決まりで片付けられるほど

単純なものじゃない。

 

 

皆それぞれ様々な事情を抱えているわけだし

価値観も考え方も国も文化も違うわけだ。

 

 

ある一定の文化によって築き上げられた「ルール」を押し付けることが

どんなに虚しいことか…

 

 

僕もかなり狭い考えを持っていたと思うが、

短い民泊ホスト経験で、外国のゲストさんを何組か受け入れてわかったのである。

 

「相手には相手が生まれ育って得てきた価値観やルールがある

 

それがあまり良くわかっていなかった頃は

普通に土足で家に上がって来られてビックリしたから(笑)

 

いや、欧米がそういう文化なのは知ってたけど

実際自分の家でやられると

「おいおいおいおいおい!!!!」ってなるよね。

 

 

日本の「空気を読め。」「マナーを守れ。」

というのはまず通用しないからね。

そういう意味では非常に良い経験だった。

 

日本人のほうがマナー悪いこともわかったし(笑)。

 

 

だから僕は「世の中の正しさ」で物事を語るのは

今後は一切しないことにした。

 

 

誰かが決めた「正しさ」を優先させてしまうと

自分の「正しさ」がわからなくなるし、

他人のことも思いやれなくなるからだ。

 

 

あ、もちろん

何か考えがあってそのルールを守っているのなら良いんだよ。

その人自身が自分の頭で考えて選んだことだから。

 

 

例えば

「車を運転中、赤信号で停まらないといけないのは

事故を起こす可能性があるから」

ってどう考えても納得できることだしね。

 

 

でも、そうではなくて、

「思考停止」の状態で「なんとなく」従っているだけなら

それはやめたほうが良いってことさ。

 

 

もちろんルールを楯に

守らない他人を「悪い」「悪くない」って

むやみにジャッジするのもナンセンス。

 

 

実は、

そういう行為は自分に対してしているのと同じで、

自分が苦しくなるだけだからね。

 

 

てなわけでまとめると…

 

 

「正論で語るな。

あなた自身の言葉で語れ。」

 

ということだ。

 

 

少なくても困っている相手が助けを求めてきたら、まずは助けてあげよう。

その人だって勇気を出してあなたに助けを求めているだから

その気持ちを思いやろう。

 

その上で、

「相談してくれてありがとう。」

と相手に感謝の気持ちを述べるんだ。

 

なにか意見やアドバイスなど言いたいことがあっても

そこは一度飲み込んで、相手の話を聴くのが最優先。

 

 

同意できない部分、理解できない部分があっても

「辛かったんですね。」

「嫌な思いをしたんですね。」

とせめて寄り添ってあげよう。

 

 

そうすれば、相手に

「この人は味方だ」「信頼できる人」と思ってもらえるし、

あなたに対する評判が周囲の人も巻き込んで、

その後も様々な面で良いことが訪れるようになるだろう。

 

 

…ちなみに

僕が「相談した相手」だが、

その人の人柄自体は好きなので今も仲良くしていただいている。

 

 

ただ、この人に限らず

 

人間って価値観が合わないと、

将来的には自然と離れていくことになるかもしれない

 

これは仕方がないことなのかなとは思っている。

 

 

だから、

嫌ってはいないけど、なんか合わない…っていう人に対しては

付かず離れずの良い距離感を保ちつつ

色んな人と知り合っていく上で

「この人なら価値観が合うな、似てるな。」

「この人をもっと知りたい!仲良くしたい!」

って人と付き合うようにしていけば良いと思うよ。

 

 

価値観が変わるっていうのは自分が成長しているっていうことだからね。

 

 

生まれてから死ぬまでずっと一緒にいたい人って

むしろいないんじゃないかって思う。

 

 

そう考えると結婚ってかなり無理がある制度だなって思うし

バンドや音楽グループの解散やメンバーの脱退も

ファンにとっては寂しいけれど、必要だから起こる現象なんだよ。

(↑※これは音楽ファンの自分へ言い聞かせている言葉でもある。)

 

 

自分の気持ちを誤魔化さない。

目の前の相手を責めることも一切しない。

 

 

ありのままの事実を受け入れてつつ

流れに身を任せて生きていこう。

 

2013年11月 京都にて撮影。

親なんか尊敬しなくて良い

「尊敬する人:親」

 

これは中学校のクラス替えで最初に書かされる自己紹介シートに
書いた言葉である。
(趣味や好きなものは何かとか書くやつ)

 

授業参観に来て母親がこれを見た時
「ねえ、親って誰のこと?私?」
などと嬉しそうに言ってきたので、照れ隠しをした。

 

しかしよくよく考えてみたら僕自身、心からそう思って書いたわけではない気がする。

 

というのは、他にも同じように「尊敬する人:親」と書いている人がいたから
なんとなくそう書いたほうが無難と思ったのだろう。

 

本当に優等生タイプというか、
人から嫌われることを恐れているというか、
実につまらない子供だったなぁと思う。

 

今では一番尊敬してはいけないのは
むしろ親だと思っている。

 

当時の自己紹介シートにも

「自分が一番なりたくない人間:親」と書けばよかったのだ。

 

それはそれで先生に呼び出されるかもしれないが、
自分に正直であること、親からの影響を受けないと決めることで、
健全に成長することができるからである。

良い子ちゃんすぎると自分が不幸になるのだよ。
だから気を付けたい。

 

それに実際、親のような人間を目指してはいけないのだ。

 

親自身が良い人なのか悪い人なのか
好きなのか嫌いなのかは全く関係ない。

 

愛情を持って育てられたかどうかとか、
今でもお世話になっているとか、
迷惑かけているとか、
そんなことは関係なく、
親の言うことは一番聞いてはいけないのだ。

 

親といっても父親や母親だけではない。
育ての親とか祖父母とか、
教師とか習い事の先生とかも当てはまる。

 

つまり「親」とは、
良くも悪くも自分に影響を与えた人物、概念のことなのだ。

 

今までも、そしてこれからもあなたが生きていく上で、
「親」というのは自分の人生を支配する呪縛となる。

 

これを手放せるようになるには長い年月がかかることだろう。

それならば、それに気づいたらすぐに行動に移したほうが良い。

 

ちなみに僕は父親に対してはその気持を明確に持っていたが、
母親に対しては同情的というか、
むしろ正義感を振りかざして
「俺はお母さんの味方!」
とさえ思っていたほどだった。

 

父親や祖母に関する愚痴をしょっちゅう聞かされていたから
「お母さん可哀想」「あいつら許せない」
というような感情を抱いてしまっていた。

 

自分自身も二人のことをあまり良く思っていなかったからということもあったし、
ある意味洗脳状態にあったようだ。

 

元々自分に価値がないと思っていたからか、
人の意見に影響されやすく、
物事を俯瞰的に見ることが出来ず、
感情論で反応してしまい、
むやみに被害者を同情するような人間になってしまった。

 

今はそうならないように気をつけて情報を得るようにしている。
「感情を煽る言葉」は最も危険な要素だからね。

 

さらに親からは僕自身を否定することや
無神経な言葉もよく言われたものである。

 

いくら表面上は幸せな家庭に見えても、
こういった親からの被害を受けている人は少なくないかと思う。

 

まぁ人には良い面もあれば悪い面もあるし、
親が完全に悪いなんて一概には言えないのだけど、
親を嫌いなら嫌いで別に良いのではないかと思うし、
親を嫌いな自分自身を責めることもナンセンスだ。

 

僕は親を好きではあるが、
これだけ長い年月の間僕がGIDで悩んでいるのに
理解しようとする姿勢すら見せないのは呆れるほどである。

 

彼らもまた「親の呪縛」から離れられないのだろう。

 

皆さんも自分の人生を思い通りに生きるためには、
決して親の言うことを真に受けてはいけない。

 

その被害を最大限に防ぐやり方がある。

 

それは、例え経済的に不安定でも良いので、
「親から離れた場所に引っ越してしまおう」ということだ。

 

 

強制的なやり方をすれば、きっと自分自身も変わる。

 

大丈夫。

 

日本は安心して暮らせる国だから
滅多なことでは怪我をすることはない。

 

むしろそうしないと、親はいつまでもあなたを近くに置いておきたがる。

 

表面上では「好きなことをして良いよ」なんて優しい言葉をかけておいて、
「自分の思い通りになってほしい」なんて思惑があるのが見え見えなのだ。

 

また、遠くに離れても
「帰ってきてほしい」なんて淡い期待を抱いているんだなってのがよくわかる。

 

なんというか皆、子供を心配しすぎ。
ちょっとは猫を見習えよと思うくらいだが。
(※猫は強制的に親離れさせられるらしい。)

 

 

人間は猫とは違うけれど、
それでも親と一個人として上手く付き合っていくには
ちょっとドライな関係性になったほうが良いのだ。
「家庭」なんてある意味監獄である。
ある一定の価値観の中で10代のほぼ全てをそこで過ごすわけだから。

 

僕だってずっと実家暮らしをしていたらと考えると、
非常に恐ろしく感じる。

 

「家庭」に居続けることの妙な居心地の良さも相まって
さらに引きこもりになってしまい、
人間嫌いも増長させてしまっていたかもしれない。
だから僕は今まで足を踏み入れたことすらもない沖縄に来たんだ。

 

親から離れた場所で10年以上暮らしていてわかったのだが、
むしろ血が一切繋がっていない人達のほうが
温かくて優しいのではないかとさえ感じるのだ。

 

それは「むしろ赤の他人だから」というのもある気がしていて、
干渉されないというのが一番だと思う。
さらに自分自身がとる全ての行動は自己責任と考えることで、
特定の人間やものに依存することなく、
人との付き合いも上手くやっていけるようになるとわかってきた。

 

特に沖縄には「ゆいまーる精神」などという
特有の助け合い精神があるしね。

 

 

DQNみたいな人もたくさんいるにはいるが(笑)

しばらくはここで生活して、今考えていることを実現できるように動いていきたい。

 

ただ、やはり「家庭」というものは安心するらしく、
実家にも結構帰ってるけどね。

 

今後の生活において
「安心感」をとるのか
「自分にとって本当の幸せ・自由」をとるかは
自分自身の選択にもかかっていると思う。

 

たとえちょっと不便だなと感じていても、
沖縄で暮らすことには意味があると思うし、
いずれは沖縄以外で暮らすことも視野に入れたいと思っている。
それは海外かもしれない。

 

実際、学生時代や20代の頃と比べると
良い意味でだいぶ価値観が変わってきているしね。

 

これも今まで関わってきた人達のおかげだ。

 

親がしてくれたことに対しては感謝するとして、
感謝というものを押し付けられるのは違う。

 

ギブアンドテイクも不要だ。
自分が「ギブ」する側でも「テイク」する側でも
その考えに縋り付いてしまえばしまうほど、
自分が幸せになれないからである。

 

これについては長倉顕太さんの書籍も参考になるので、
ぜひ読んでほしいと思う。

 

 

文章については好き嫌いが分かれるとは思うが、
僕自身には彼のストレートな表現方法が合っているようで、
最近は彼の思想に影響を受けているし、
他にも書籍を読んでみたいと思う。

 

 

最後に…

 

 

親のことは、「一人間としては」尊敬するとしても、
「親としては」「自分の人生の師としては」絶対に尊敬はしない。

 

そう思って親からの一方的な小言や期待をスルーしつつ、
親とそれなりに良好な関係を築けていけたらと思う。

誉めないめげないコミュニケーション

僕は全くと言っていいほど人を誉めない。

 

厳密に言うと、人の良いところを言ったとしても、「誉めている」感覚がない。

 

確かに、相手の良いところを相手に伝えて喜んでもらえるなら、
その行為自体は好きだ。

 

天海夜 煌琉さん(@koryu_aminumiya)がシェアした投稿


しかしそれは「相手の一面」「そこから自分が考えたこと」という事実を
相手に伝えているだけなのである。

 

意見や考え方の相違はあるかもしれないが、
それを伝えることで、新しい価値観や新しい一面が生まれるかもしれないしね。

 

それから、最近では苦手な人でも良い部分がないか探すようにしている。

 

厳密に言うと、相手のことを少しでも理解したいというか、
その人の人間性をできるだけ多く把握して分析をしたい。

 

…といった気持ちが強いのかもしれない。

 

こういった一連の研究をしていくことで、自分にとって新しい発見があるし、
ネタ作りの参考になるからだ。

クリエイターの性だよね(汗)。

 

いや、その人が有している人間性には、もしかしたら「良い」も「悪い」もないのかもしれない。

というのも、以前のブログでも言及をしているが、全ての物事に意味付けをしているのは自分だから。

 

 

特に人間の長所と短所なんて紙一重なわけだし、
自分の都合の良いように「ここは良い」「ここは悪い」と判断するのも
なんだか失礼な気がするのだ。

 

好き、嫌いで判断するなら個人的な好みの問題だから良いけどね。

 

人間的にどうしても好きになれない人物なら、
できるだけ関わらない、離れればよいだけのことだし。

 

自分が今関わっている人がどんなキャラクターで、
どんなことに喜びを見出し、
逆にどんなことに弱いのか(怒るのか)は、
よく見るようにはしているかな。

 

さて、話を「誉めること」に戻すと…

 

以前、「嫌われる勇気」を読んだ時に、
人を誉めることが必ずしも良いこととされないことを知った。

 

 

確かに誉めるという行為自体、
どことなく人を下に見ているような印象さえあるしな。

 

「誉めること」が度を過ぎてしまうとただの馴れ合いになるし、
個人的にそれは最も勧めないコミュニケーションだ。

 

だから、僕は人のことを誉めない。

 

その代わり、「あるがままの相手の一面を認識して、受け入れる」ことを重視するようになった。

 

相手の一面を「こうなのだな」と正確に認識する。

 

そして、その事実を受け入れて、自分がどう解釈しているのかをフィードバックする、
あるいはメモなどに残しておく。

 

「いいね」という感情ももちろん大切だけど、なぜ自分は「いいね」と感じたのか?

 

それを分析していくことで、
自分自身のことがわかるようになってくるからだ。

 

 

自分のことがハッキリわかっていれば、
どんな情報や意見を目にしても、ブレることもなくなるし。

 

自分が確信を持って行動して、
誰かが温かくその行動を見守ってくれているなと感じているのなら、
誉められるという行為は大して必要としなくなるのかもしれない。

最近では特にそう思うようになってきたのだ。

 

でも人間は何処かでつながりを持っていたい生き物である。
誰かからの言葉や反応が欲しいし、
それがないと活動を辞めてしまう人だってある。

 

僕は数年前から試行錯誤しながら形を変えつつ発信活動を続けてきているが、
最近では何の反応もなくても全く問題ない。

 

自分は自分なりに狂った世界で苦しんでいる人々の役に立てれば
それで良いと思うからだ。

 

 

ただし、もし何か新しい発見を見つけたり、
逆に「いやこれはこうだろ」と思うことがあったら、
その際は遠慮なくコメントを下さい。

 

 

とりあえず、時には反応しづらい内容も躊躇せずに書いているわけだが、
何も反応なくてもめげない(笑)。

 

 

現に、「サイレントマジョリティが抱える闇」という見えない怪物のせいで
多くの人が生きづらさを感じている。

 

そんな怪物の弁慶の泣き所に
ジョブを打ち続けていくに意味があるからね。

 

 

 

弁慶の泣き所?

 

 

 

 

…足の小指でも良いかも。

自分の人生を生きろ

今日はGIDの人達とビーチパーティだった。

 

 

その時に、昔コミュニティに来てくれていたことのある当事者の家族の方が、
今日、子どもを連れて来てくれた。

 

 

子供が生まれたからなのか、完全に母親の顔というか、
雰囲気がだいぶ柔らかい感じになっていた印象だった。

 

 

正直、だいぶ前に会ったきりだったから

なんとなくしか覚えていなかったけど…

 

とても懐かしいというか、感慨深い気持ちになった。

 

 

今年の夏に、僕は叔母や従姉妹達と一緒に牧場へ行った。
従姉妹の子どもも連れて。

 

 

 

 

犬の動きがシンクロしている(笑)。

 

 

その子供もだいぶ大きくなっていて、

僕はかなりその子に懐かれている。

 

 

昔は自分達が子どもで、皆で牧場へ行ったこともあったものだが、
今では皆が大人になった。

 

 

自分と同世代の人間も、どんどん結婚して子どもも生まれている人が多いのだろう。

 

 

僕はどうだろう。

 

 

成長しないまま子供のままで大人になってしまっていないだろうか。

 

 

だいぶ病んでいたのもあって、つい何年かまでは被害妄想の塊みたいな奴だった。

 

 

今は民泊のホストを始めたことで、

他の文化の人も受け入れるようになってきて、

ちょっとずつ変わってきた。

 

 

海外の人は大らかで優しい人が多い。

一部のホストに嫌われている一部の国の人でも、

僕の家に嫌な人は来たことはない。

 

 

むしろ、言葉の通じる日本人のほうが

分かり合えないこともあると悟ったのだ。

 

※その時の経験談をこちら↓で詳しく説明している。

 

 

今は、とにかく自分がやりたいことを実現できるような生活をしていきたい。

 

 

そのためには、ちょっとくらい辛い思いをしても構わない。

 

 

ただ、なんとなくだけど、一生独身な気がするし、

別にパートナーを見つけようとも思わない。

 

 

というか、人それぞれ自分の自由な生き方をすれば良いと思う。

 

 

子供を生みたい人は生んで、家庭を築けば良いと思うし、
特に興味がない人は、それ以外のことで世の中に貢献していけば良いと思うんだ。

 

 

つい先日も沖縄では内地に当たるお盆の日があったようだ。

 

 

親戚同士の結びつきが強いのは良いのだけれど、

自分達の古臭い考えに縛られて本人の生き方に干渉しだすと、

生きづらくなる人を生み出すだけで、誰も幸せにはならない。

 

 

また、そのようになっても、自分のことは自分で決めると思って
自分を妨げる全てのものは捨ててしまえば良いとさえ思う。

 

 

古い制度や価値観を重視するあまり、何が本当に大切なのかを見失ってはいけない。

 

 

私は私の思うように生きる。

 

 

それが尊重される時代になれば良いなと思う。

 

 

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「集団で群れ、誰かに追われる存在」よりも、

「常に孤高であり、夢を追う存在」であれ。