人間不信の人が人を信じられない本当の理由

木の形って胎児とか血管とか、人間や体の中に似ていると思うことがある。

 

 

天海夜 煌琉さん(@koryu_aminumiya)がシェアした投稿

 

そんな時、「木」と「自分」という存在がなんだか繋がっているように思えてくるのだ。

 

しかし、それは僕自身の勝手な意味付けだ。

 

 

…そんな前置きはさておき、本題に入るが、

 

果たして、人間不信な人というのは、

本当に人間自体を信じられないのだろうか。

 

 

たしかに、人間不信の人は、人間が信じられないから人間不信なのだ。

 

それは当たり前の事実だ。

 

しかし、ハナから人間を信じられない人間なんてそんなにいないだろう。

 

もし赤ちゃんの頃から人間不信だったら

 

「その母乳には毒が含まれてんだろ?俺は飲まねーよ。ケッ。」

 

なんてなんとも可愛くない子供が出来上がるし、

そもそもあなたがそんな赤ちゃんだったのならば、

今ここまで生きていけないはずだ。

 

 

僕も人を信じていたから、

美味しいご飯や水を与えてもらっていたから、

今生きてるんだろうなって思うんだよね。

 

 

そう考えると、人間不信の人は、

人間不信という「意味付け」という自分にしてしまっているわけだ。

 

…ということが考えられる。

 

 

でもそれって、僕が冒頭で話した、

「木の形が何かに似ている」と意味付けすることに、

本質的にはそんなに変わりないような気がするんだ。

 

 

というのも、

「木=胎児」というイメージは自分自身が勝手にしていることであり、

木は「木」であることに変わりはない。

 

それと同じように、

「自分=人間不信」という固定観念さえ払拭してしまえば、

あなたは「あなた」という本来のあるべき存在に戻るはずなのだ。

 

 

でも、そんな簡単にいかない。

 

 

それは何故か。

 

 

それは、多くの場合、成長するに連れて生じる出来事で

世の中や他人に対する見方が変わってしまうからだ。

 

 

信じていた人に裏切られたからとか、

相手に対して抱いていたイメージに失望したからとか、

詐欺の被害を受けたからとか、

色々理由はあると思うけど…

 

 

「自分を信じることができない故に、

安易に人間を信じてしまう。」

 

 

それが一番の問題のような気がした。

 

 

自分がそうだったからだ。

 

 

表面だけで他人の言動に流されてしまい、

挙句の果てには都合の良いように扱われてしまい、

自分が心底感じている感情に耳を傾けなかったからだ。

 

 

 

そこで考えた。

 

 

そもそも、「何でも信じてしまう人」というのは、

一見素直そうには見えるが、

心のどこかでは「違う」と思っていても、

その気持に嘘をついて相手に従ってしまうわけなのだ。

 

 

そのため、最終的には

怒りや悲しみなどといった

後味悪い「負の感情」が残ってしまうのではないかと思う。

 

 

一方で、心から人を信じることができる人、

自己肯定感が高い人というのは、

ハッキリ「ノー」と言えるか、

そもそも関心がないことには興味を示さないのだと思う。

 

 

そのため、自分と本当に合う人だけと付き合うことが出来るし、

やりたくないことをやることもなく、

幸せに生きることが出来るのだ。

 

 

その人自身が心から愛している相手を

心から”信頼”しているからね。

 

 

このように、人間不信の人が人間不信であり続ける本当の理由は、

人間を信じられないことではない。

…と僕は思うのだ。

 

 

自分の気持ちや考えを信じられないが故に、

他人の言動にいちいち左右されてしまうからなのだ。

 

 

さらに、自分も含め多くの人の場合、

コミュニケーションも不足しているから、

不信感や疑問が生じた時にも争いを恐れて相手に聞けない、

コミュニケーションを取ろうとしないというのが

自分を不幸にさせている原因でもある。

 

 

「相手に悪い」とか「聞きづらい」とか

「自分が我慢すれば良い」とか

気を使っているからというのももちろんあるんだけろうど…

 

 

自分を1つの価値ある存在だと思っていないがゆえに

躊躇してしまうんだろうね。

 

 

「なぜ自分には価値が無いと思ってしまうのか」…

これについてはまた別の機会に考察してみたいと思う。

 

 

 

繰り返すが、人間不信が生じることで問題なのは、

他人を信じられないことではない。

 

 

自分を信じられないからだ。

 

 

自信を持て、と言っているわけじゃない。

そもそも僕は「自信」なんてものも存在しないと思うんだ。

 

 

自分を信じられない人というのは、

全ての物事を「相手の言動が自分に影響を与えるかどうか」

という基準だけで決めてしまっている状態。

 

つまり、他人に左右されるということである。

 

だから、自分というものが無い。

自分を信じられないのだと思う。

 

 

他者の言動にブレない、所謂「自信がある人」というか、

「自分のことは自分で決める」と強い意志がある人は、

物事に対して一貫した態度を取れるわけだし、

仮に意見や考えが変わったとしても、それは自分の中で見出した答えだから、

他人は関係ないのだ。

 

 

よく、親であれ子であれ教師であれ友人であれ、全く知らない人であれ、

他者から何か学びを得た時に、

「〇〇が大切なことを教えてくれた」と言うケースは良く見かけるけれど、

相手は自分に対してヒントを与えてくれただけであって、

「○○してあげた」なんて誰も思っていないケースも多々あると思う。

 

別に普段何気なく生活していて、

「自分が生きていることで誰かに勇気を与えているんだ!」なんて

別に考えてないでしょ?

 

中にはそう思いながら生活している人もいるかもしれないけれど、

多くの人は食べたいもの食べてやりたいことやって日々の仕事して…

そんな毎日を過ごすのが基本だと思う。

 

起こった事実に対して意味付をしていくのが、人間という生き物なのだ。

 

出来事や事象に意味や価値を見出して

「相手のおかげ」だと考えるのも自分の意思だし、

逆に、相手の行動を「相手のせい」だと逆恨みしてしまうのも

自分の勝手なんだよな。

 

 

確かに、人を信じることが出来て、

他人に対して常に感謝できるような思考が身についたら、

全ての物事に感謝できるようになるとは思う。

 

 

そんな人物になれたら、何か問題が起きても、

「自分で選択したことだから」と

自然と自分の行動に責任を持てるようになるはずだ。

 

 

人の意見に賛同するのか、

「一つの意見」として受け取るだけにとどまるのどうか(つまり賛同はしない)は

自分自身で決めるものであり、他人がするものではない。

 

 

それが、「自分で人生の決定権を持つ」ということなんだろう。

 

 

なので、自分の行動に責任が持てる人、

自己責任で行動できる人というのは、

相手を尊重できるし、自分自身の気持ちにも敏感である。

 

 

「好きか嫌いか」

「やりたいのかやりたくないのか」

「気が向くのか向かないのか」

…などなど、

これらが全てハッキリしているからね。

 

 

これがもし「誰々がこう言ったから(自分は悪くない)」

といった理由だけで、つまり他者のせいにして行動してしまうようになると、

結局のところ、人の意見一つ一つに

悪い意味で影響されやすい人間が出来上がってしまう。

 

 

被害妄想ね。これは悪だよ。

 

 

あなたにお子さんがいるならば、

こういった被害妄想は良くないと教え諭す必要がある。

また、あなた自身が「被害妄想的な言動を絶対にしない」と心がけることも重要だ。

子供は親の細かい部分まで見ているからね。

 

被害妄想的な言動からは

相手の気持ちを正しく理解していないだけでなく、

相手の行動であなたの選択が決められてしまっているという点で、

結果、あなた自身の気持ちも蔑ろにしてしまっているのだ。

 

 

これでは、いくら心の中では「変わりたい」と思っていても、

何度も同じようなことを繰り返す可能性があるので、

もしそういった思考が習慣になっているなと感じたら、

できるだけ早く手放せられるよう心がけてみて欲しい。

 

 

※自己責任論については以下の記事を参考にしてみてね。

 

 

 

ともかく、相手が悪人であれ善良な人であれ、

「相手と本音で語る」ことを経験しないと、

人を信じることなんて出来ない。

 

 

「自分は人間不信だから」と言って引きこもっていたら

いつまでもその自分を変えることが出来ない。

 

 

それだと何が不都合かというと、

 

…別に誰も困らない。

 

ただ、あなた自身は幸せに生きられないとは思う。

 

 

別に不幸なままの自分でいたいというのであれば、

人間不信のままでも良いんじゃないかな?

 

 

ただ、誰もあなたのことなんて四六時中気にかけているわけではないし、

逐一自分のことを気にかけてくれるわけではない。

 

その事実は知っておく必要はある。

 

一方で、誰もあなたの存在が迷惑だなんて考えている人も

そんなに多くいるわけではない。

もしかしたら全然いないかもしれない。

それも知っておく必要がある。

 

 

その事実があった上で、人間不信のままで居続けるのって

なんだか虚しいと思わないかな?

 

 

別に無理をして自分を好きになる必要もないし、

人を好きになる必要もない。

自分がなりたくないと思う自分に、あえてなるという選択肢もあるだろう。

 

 

もちろん、本当にあなたを騙そうとする人間とか、

悪意だけで接してくる人間とか、

良いように利用しようとする人間とか、

悪質な人間もいることはいる。

 

だから、人を見る目は養っていく必要があるけど。

 

しかし、人間は自分に敵意を示す人や

自分を利用しようと近づいてくる人だけではない。

 

好意を持ってくれている人もいるわけだし、

すれ違う人達も他人に親切にしたいと思っている人がいることは確かだ。

 

 

少なくとも僕はそうだ。

「自分に近寄るな」オーラを出していない限りは(笑)。

 

皆どこかで、「誰かの力になりたい」「誰かと繋がりたい」と思っているんだよ。

だからSNSがこんなにも発達しているんじゃないかな。

 

 

世界には美しい景色がたくさんあるし、

まだ見ていないことのほうが、むしろ遥かに多いはず。

 

 

今、仮にあなたが苦痛を強いられている状況だとしても、

自分の選択次第でそれは変えられる。

 

 

そう思ったらこの世界で生きていくのも悪くないし、

少しは誰かを信じてみようという気持ちにならないかな?

 

2016年8月某日 広島県広島市にて

 

僕も人間不信でさ、嫌な出来事がある度に、

さらにその気持を強めてしまうようなこともあった。

 

でも、「その状態だとこの先辛いだけだ」と思ったから、もう辞めたんだ。

 

 

今まであれこれ色んな本を読んだり、セミナーを受けたり、

ネット上の商材も購入したりしたけど、

もう今後はむやみやたらに「自己投資」はしないつもりだ。

 

 

シンプルに人を信じることにした。

 

 

本気で変わりたいと思ったら、

別に特別な行動をしなくたって良い。

 

 

まずは眼の前にいる人を心から人を信じてみる。

 

 

この時、心のどこかで不信感や嫌悪感を抱いていたら、

表面だけの付き合いにしかならない。

 

 

ただただ、相手に対して一方的に「期待」することなく、

相手という人間を心から「信頼」すること。

 

 

仮にトラブルや意見の食い違いが起こってしまったとしても、

心からその人のことを「一人間」として信頼できるのかどうかが重要だ。

 

その際に、何か少しでもひっかかるというか、信頼できない要素が一つでもあるのであれば、

静かに距離を起き、離れていく方がお互いのためだろう。

 

 

そうすることで、本当に心の通った人だけと良好な関係を築くことが出来るし、

自分自身の成長にも繋がっていくだろう。

 

 

※人を「信頼する」ことと、「期待する」ことの違いについては、

以下の記事↓も参考にしてみてね。

 

 

この「信頼する」という、ただシンプルなことを徹底的に行うことが重要なのは、

何か物事を始めた時に、途中で諦めてしまうことを食い止めることにも繋がる。

 

 

「諦める」というのは

自分を信じられないだけではなく、

自分が信じた人を信じられないからだろう。

 

 

多くの場合、何か新しいことを始める上では

「師」と呼ばれる人が必要になってくるのだろうけど、

その「師」から守破離で最終的に離れることになったとしても、

「守」さえもしっかり行えていないようであれば、

それは「師」ではなく自分の問題だからだ。

 

だから、思うようにいかないんじゃないかなと思う。

 

人生なんてそんなに複雑なものではない。

 

 

出会った人に「縁」を感じたならば、

その人のことを信じているだけで良い。

 

万が一違和感が生じてきたら、自分の心に問いかけてみる。

 

必要があれば環境、付き合う人を変えてみる。

 

そのシンプルなことを繰り返すだけで良いのだ。

 

 

長い期間はかかるかもしれないけれど、それだけで徐々に変わっていく。

 

 

もう何度も同じことを繰り返しているけれど、

大切なことだからもう一度言うわ。

 

 

まずは、「目の前の人を心から信じてみる」

 

 

そこから始めよう。