親なんか尊敬しなくて良い

「尊敬する人:親」

 

これは中学校のクラス替えで最初に書かされる自己紹介シートに
書いた言葉である。
(趣味や好きなものは何かとか書くやつ)

 

授業参観に来て母親がこれを見た時
「ねえ、親って誰のこと?私?」
などと嬉しそうに言ってきたので、照れ隠しをした。

 

しかしよくよく考えてみたら僕自身、心からそう思って書いたわけではない気がする。

 

というのは、他にも同じように「尊敬する人:親」と書いている人がいたから
なんとなくそう書いたほうが無難と思ったのだろう。

 

本当に優等生タイプというか、
人から嫌われることを恐れているというか、
実につまらない子供だったなぁと思う。

 

今では一番尊敬してはいけないのは
むしろ親だと思っている。

 

当時の自己紹介シートにも

「自分が一番なりたくない人間:親」と書けばよかったのだ。

 

それはそれで先生に呼び出されるかもしれないが、
自分に正直であること、親からの影響を受けないと決めることで、
健全に成長することができるからである。

良い子ちゃんすぎると自分が不幸になるのだよ。
だから気を付けたい。

 

それに実際、親のような人間を目指してはいけないのだ。

 

親自身が良い人なのか悪い人なのか
好きなのか嫌いなのかは全く関係ない。

 

愛情を持って育てられたかどうかとか、
今でもお世話になっているとか、
迷惑かけているとか、
そんなことは関係なく、
親の言うことは一番聞いてはいけないのだ。

 

親といっても父親や母親だけではない。
育ての親とか祖父母とか、
教師とか習い事の先生とかも当てはまる。

 

つまり「親」とは、
良くも悪くも自分に影響を与えた人物、概念のことなのだ。

 

今までも、そしてこれからもあなたが生きていく上で、
「親」というのは自分の人生を支配する呪縛となる。

 

これを手放せるようになるには長い年月がかかることだろう。

それならば、それに気づいたらすぐに行動に移したほうが良い。

 

ちなみに僕は父親に対してはその気持を明確に持っていたが、
母親に対しては同情的というか、
むしろ正義感を振りかざして
「俺はお母さんの味方!」
とさえ思っていたほどだった。

 

父親や祖母に関する愚痴をしょっちゅう聞かされていたから
「お母さん可哀想」「あいつら許せない」
というような感情を抱いてしまっていた。

 

自分自身も二人のことをあまり良く思っていなかったからということもあったし、
ある意味洗脳状態にあったようだ。

 

元々自分に価値がないと思っていたからか、
人の意見に影響されやすく、
物事を俯瞰的に見ることが出来ず、
感情論で反応してしまい、
むやみに被害者を同情するような人間になってしまった。

 

今はそうならないように気をつけて情報を得るようにしている。
「感情を煽る言葉」は最も危険な要素だからね。

 

さらに親からは僕自身を否定することや
無神経な言葉もよく言われたものである。

 

いくら表面上は幸せな家庭に見えても、
こういった親からの被害を受けている人は少なくないかと思う。

 

まぁ人には良い面もあれば悪い面もあるし、
親が完全に悪いなんて一概には言えないのだけど、
親を嫌いなら嫌いで別に良いのではないかと思うし、
親を嫌いな自分自身を責めることもナンセンスだ。

 

僕は親を好きではあるが、
これだけ長い年月の間僕がGIDで悩んでいるのに
理解しようとする姿勢すら見せないのは呆れるほどである。

 

彼らもまた「親の呪縛」から離れられないのだろう。

 

皆さんも自分の人生を思い通りに生きるためには、
決して親の言うことを真に受けてはいけない。

 

その被害を最大限に防ぐやり方がある。

 

それは、例え経済的に不安定でも良いので、
「親から離れた場所に引っ越してしまおう」ということだ。

 

 

強制的なやり方をすれば、きっと自分自身も変わる。

 

大丈夫。

 

日本は安心して暮らせる国だから
滅多なことでは怪我をすることはない。

 

むしろそうしないと、親はいつまでもあなたを近くに置いておきたがる。

 

表面上では「好きなことをして良いよ」なんて優しい言葉をかけておいて、
「自分の思い通りになってほしい」なんて思惑があるのが見え見えなのだ。

 

また、遠くに離れても
「帰ってきてほしい」なんて淡い期待を抱いているんだなってのがよくわかる。

 

なんというか皆、子供を心配しすぎ。
ちょっとは猫を見習えよと思うくらいだが。
(※猫は強制的に親離れさせられるらしい。)

 

 

人間は猫とは違うけれど、
それでも親と一個人として上手く付き合っていくには
ちょっとドライな関係性になったほうが良いのだ。
「家庭」なんてある意味監獄である。
ある一定の価値観の中で10代のほぼ全てをそこで過ごすわけだから。

 

僕だってずっと実家暮らしをしていたらと考えると、
非常に恐ろしく感じる。

 

「家庭」に居続けることの妙な居心地の良さも相まって
さらに引きこもりになってしまい、
人間嫌いも増長させてしまっていたかもしれない。
だから僕は今まで足を踏み入れたことすらもない沖縄に来たんだ。

 

親から離れた場所で10年以上暮らしていてわかったのだが、
むしろ血が一切繋がっていない人達のほうが
温かくて優しいのではないかとさえ感じるのだ。

 

それは「むしろ赤の他人だから」というのもある気がしていて、
干渉されないというのが一番だと思う。
さらに自分自身がとる全ての行動は自己責任と考えることで、
特定の人間やものに依存することなく、
人との付き合いも上手くやっていけるようになるとわかってきた。

 

特に沖縄には「ゆいまーる精神」などという
特有の助け合い精神があるしね。

 

 

DQNみたいな人もたくさんいるにはいるが(笑)

しばらくはここで生活して、今考えていることを実現できるように動いていきたい。

 

ただ、やはり「家庭」というものは安心するらしく、
実家にも結構帰ってるけどね。

 

今後の生活において
「安心感」をとるのか
「自分にとって本当の幸せ・自由」をとるかは
自分自身の選択にもかかっていると思う。

 

たとえちょっと不便だなと感じていても、
沖縄で暮らすことには意味があると思うし、
いずれは沖縄以外で暮らすことも視野に入れたいと思っている。
それは海外かもしれない。

 

実際、学生時代や20代の頃と比べると
良い意味でだいぶ価値観が変わってきているしね。

 

これも今まで関わってきた人達のおかげだ。

 

親がしてくれたことに対しては感謝するとして、
感謝というものを押し付けられるのは違う。

 

ギブアンドテイクも不要だ。
自分が「ギブ」する側でも「テイク」する側でも
その考えに縋り付いてしまえばしまうほど、
自分が幸せになれないからである。

 

これについては長倉顕太さんの書籍も参考になるので、
ぜひ読んでほしいと思う。

 

 

文章については好き嫌いが分かれるとは思うが、
僕自身には彼のストレートな表現方法が合っているようで、
最近は彼の思想に影響を受けているし、
他にも書籍を読んでみたいと思う。

 

 

最後に…

 

 

親のことは、「一人間としては」尊敬するとしても、
「親としては」「自分の人生の師としては」絶対に尊敬はしない。

 

そう思って親からの一方的な小言や期待をスルーしつつ、
親とそれなりに良好な関係を築けていけたらと思う。

「ぼくの名前はズッキーニ」感想〜無償の愛さえあれば万事OK〜

「ぼくの名前はズッキーニ」を観てきた。

 

天海夜 煌琉さん(@koryu_aminumiya)がシェアした投稿

※以下、ネタバレ含みます。

 

ちなみに日本語吹き替え版。
実写ならともかく、アニメだったらオリジナルの声優さんじゃなくても別に良いしね。
もちろん、オリジナルの方も気になるではあるけど。

 

このアニメーションの形態はストップモーションアニメだ。
僕のストップモーションアニメで古い思い出があるのは…
そう、「メトロポリタン美術館」。
幼少時代はかなり恐かったけど、不思議な雰囲気があるんだよね。

 

…てか、ググったらトラウマ作品で有名らしいし、
皆同じこと思ってたんだなって安心したよ(笑)

 

この手書きや3Dでは出せない気持ち悪さ(褒めてる)と、
独特な表現ができるのが、ストップモーションの良いところ。
良くも悪くも、観る人の印象に残りやすい。

 

 

ちなみに僕もストップモーションアニメを作ったことがある。

ノリだけで作ったので、内容わかりにくくてもご愛嬌。
これは製作日数2週間、編集1週間くらいだった気がする。
超雑でもこれくらいはかかるのだよ(笑)。

 

一方で、今回観た作品「ぼくの名前はズッキーニ」は一つ一つが非常に丁寧で繊細なので、
とても長くかかったに違いない。

 

話としては特に意外と難航するような部分はなく、さっくり見れた。
イーダおばさんに連れ去られたカミーユもすぐに取り返したし、
シモンを始めとする子供達がだいぶ理解力のある子達だし。

 

ただ、重いテーマを扱ってる分、
作品として本当に伝えたいところが伝われば良いというスタンスなのかなと思った。
だからこれはこれで良い。

 

キャラクターの表情も細かく、複雑な思考の変化も見て取れた。
大切なのは、この話はフィクションかもしれないけど、
ノンフィクションでない現実があるということだよな。

 

個人的には大人たちに問いかけるような終わり方が印象的だった。

 

「あなたは、どんなことがあっても、私達を愛してくれますか?」

 

…と言われているような。

 

その言葉が架空の人物とは言え、
残酷な境遇と一生消えないトラウマを抱える、
そんな子供達が投げかける言葉だからこそ、重みがある。

 

ロージーの返答をあえて明確にしていないところも、意図があるのだろう。

 

孤児に限らず、何かしら人は悲しい過去を持っているはず。

昔は僕もだいぶスレてたけど、
今は「無償の愛」さえあれば良いのかな、
なんて思うようになってきたのだ。

 

子供を愛することが出来ない大人達もいれば、
優しい大人達もいる。

 

気の合う人間もいれば、合わない人間もいる。

 

もちろんどれも現実だが、
この作品では、残酷さの中にある人の温かさと
魅力的なキャラクターで心が癒されたし、
ズッキーニが孤児院で楽しい仲間達と思い出を作って、
本当に信頼できる人と新しい生活を始める…
そんなハッピーエンドで希望が見えるのも良かった。

 

 

孤児に関して、セクシュアルマイノリティとして、
個人的に思うところはある。

 

子供を意識的に作らない人、セクシュアリティの関係で作れない人、
持たない人を悪とする風潮がまだあるのだ。

 

もちろん、自ら子供を作りたいと思う人がいるのも自然なことだし、
心から応援したいと思う。

 

実際に、子供を持ちたくて妊活中のセクシュアルマイノリティの方とお話したことがあるし、
そういった人達のためのSNSサイトがあるとも教えてもらった。

↑気になる方は、過去の記事でチェックして欲しい。

 

しかし、子供を作らないことを決めた人も、作れない人も、
何らかの事情で子供がいない人も、養子制度を活用して欲しいと思うし、
僕も経済的に子供を育てる余裕ができたら検討したい。
…なんてことをうっすら考えているのである。

 

養子制度はあまり明るくないから、もしかしたら甘い考えかもしれないけど、
性別も国籍も属性も生まれも育ちも関係なく、
少しでも多くの子供達が笑顔になれる…そんな世界を築けたら良いよね。