作り出された「幸せ」を捨てよ

基督(キリスト)Lover”コリュ”こと

天海夜 煌琉(あまみや こうりゅう)でございます。

 

「幸せ」とは何か?…と考えることがある。

 

一般的に考えられる「幸せなライフスタイル」のイメージとは

どのようなものか?

 

「マイホームを購入したい」

「新車を買いたい」

「好きなブランドで全身を飾りたい」

「一流ホテルに泊まってみたい」

「豪華なクルーズで世界一周してみたい」

 

…などなど

 

恐らく、こういったものは、

その人自身が本当に心が満たされるための幸せではなく、

企業などのマーケティングで作り出された「幸せ」だろう。

 

もちろん、その人にとってそれが幸せと感じているのであれば良いのだが、

住宅ローンを払うために仕事仕事の毎日に追われたり、

家族と過ごす時間がとれなかったりすることもあるだろう。

 

結果、金のことで常に心配することになり、

自由な時間がとれずにストレスもたまり、

夫婦間や家族との関係も不仲となり、

幸せのために不幸せな現実を作り出すことになってしまう…

それでは本末転倒である。

 

また、仮に好きな人と一緒にいて幸せと感じたとしても、

それが浮気相手ならどうなのか

セックスフレンドや風俗ならどうなのか

常に誰かとドロドロした三角関係の中で誰かを奪い合っているのはどうなのか…

 

もしかしたら、その「幸せ」は本来ならば必要がなく、

一時的に心が満たされたとしても、

常に心の隙間を埋めることはできないだろう。

 

その関係が終われば、また新たな誰かの愛を求めて、

同じようなことを繰り返すことになる。

 

それは真の幸せではない。

 

しかし、人間とは欲望に弱い生き物である。

作り出された「幸せ」の中で、真の幸せを見失いがちだ。

 

一歩街へ出れば、テレビを付ければ、SNSにログインすれば、

「幸せ」や「自己実現」などといった数々の誘惑で溢れている。

 

 

添加物だらけ毒同然の食品を過剰な演出で食欲を掻き立てるCM

化学物質だらけな化粧品を持って作り笑いを浮かべる芸能人のポスター

別に見たくもないのにでかでかと表示される卑猥な広告

 

加えて書店では成功哲学に関する本がひしめき合い、

最近では、スピリチュアルブームがより一層盛んになっている。

 

芸能人や成功者、スピリチュアルリーダーはこう言う。

 

今の現状で満足なのか?

好きなことを仕事にしようよ!

もっと自由になれよ!

ワクワクに正直になれよ!

引き寄せの法則で人生思い通りだよ!

 

と…

 

人々は、幸せそうなメンターの姿を見て、このように思う。

 

「もっと金持ちになりたい」

「もっと高次元にいきたい」

「もっと綺麗になりたい」

「もっと旅行に行きたい」

「もっと幸せになりたい」

 

そして、商品を購入するようになる。

よりその人に近づくために、より高額な商品を求めるようになる。

 

理想の自分になるために、泥沼にはまっていく。

 

このように、欲望を煽られれば煽られるほど

動物的な感情を揺さぶられ、

むしろ自分の人生を生きるどころか

より扱いやすい奴隷と化していくのだ。

 

そのようにして得られた幸せで、

本当に心が満たされるのだろうか?

 

たとえそのメンターと呼ばれる人々が幸せそうに見えたとして、

他人の心などわかるわけがない。

彼らが幸せなどと確実に言えるのだろうか?

 

こうした「幸せ」とは、日常の中でふと感じるものではなく、

実際には現実逃避としてのアヘンとして用いられることが多い。

 

結局、その人も「夢を実現させている自分」というアヘンにしがみついているだけで、

本当の幸せではないのかもしれない。

 

成功哲学やスピリチュアルだって、アヘンの危険性があるのだ。

 

それでは、何をもって自分の幸せを見出せばいいのか?

 

イエス・キリストはこのように言う。

 

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

素晴らしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

(マタイ 13:44-46)

 

先日、福音書全体を通読し終わったところだが、

以上の言葉を始め、イエス・キリストが勧めていることは

「持ち物を売り払う」…つまり「捨てること」であることがわかった。

 

天の御国とは、イエス・キリストを信じる者にとって理想の地となるのだが、

これは同時に「真理」や「本当に大切なもの」を表していると僕は考える。

 

多くの人は、必要のないものに囲まれている。

 

コレクションアイテムや使用していない服や道具など、

物質的に不要であるものはもちろんのこと、

人間関係ややりたくない仕事、

人の目や見栄、保身などもこれらに当たる。

 

それらの「必要ないもの」を「必要なもの」と錯覚してしまうため、

真理が見えなくなってしまうのだ。

 

しかし、その中に身を浸していた時に、

真珠の光(真理)を見つけることができたら…

 

なんとしてもそれを手に入れたいと感じることだろう。

 

 

作り出された虚構の幸せでない、

真の意味で心が満たされる”幸せ”を追求するためには、

「天の御国」を求め続けること。

 

それは他の人や世間の判断基準ではない、

自分にとって大切な、「美徳」…つまり「御霊の実」を大切にすることである。

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

このようなものを禁ずる律法はありません。

(ガラテヤ 5:22-23)

 

これら美徳は決して捨ててはならず、

「天の御国」に必要なものとして揺るぎないもの。

また、これらを否定することは誰にもできない。

 

実際、美徳を身に着けている人は、人としても魅力的に見えるし、

その人自身にも哲学が感じられる。

 

それはどんな高価なスーツや時計を身に着け、

高級車を乗り回しただけの人間には決して見られない、

知性や気品の漂う人徳である。

 

美徳を身に付けるには、

プライドやわだかまりなど、あらゆるこだわりを捨て、

ただ慈しみをもって人を愛すること。

 

感情を刺激されるものではなく、

心の平安を求めること。

 

作り出されたものに惑わされず、

自然と心の中から湧き出てくる思いを大切にすること。

 

自分自身と向き合い、余計なものは削ぎ落としていき、

本来あるべき自分の姿を明らかにしていくこと。

 

急にすべてを捨てることは難しいかもしれないが、

僕も必要なものと不要なものを見極めながら、

常に知恵と真理を追求し、美徳を身につけていきたい。