忍耐とは…スッパリ諦めることだ

こちら沖縄。台風なう。

 

 

なんだこの不自然な軌道は…。

沖縄本島の西側あたりに可楽でもいるのかよ。

(※可楽…「鬼滅の刃」に出てくる上弦の鬼・半天狗の分身の一つで、

羽団扇を仰いで霞柱・時透無一郎を遠くに飛ばした。)

 

それはともかく、外の状況がわからないので、

SNSで状況をチェックしているのだが、

どうやら今回の台風はすごいらしく、

車が吹き飛んだり、信号やバイクがぶら下がっていたり、

約3割の世帯が停電したり、

台風でも開いているスーパー・ユニ○ンが閉店したりしていたようだ。

(↑一番最後、さり気なく最も大事!!)

 

 

ちなみに停電に関しては、僕の家(アパート)は大丈夫だった。

浸水や所有物の損壊も特になし。

そういえば今の住所に変わってから10年以上経っているけれど、

停電自体は2、3回くらいしか経験したこと無いんだよね。

 

日本人的「忍耐」と聖書的「忍耐」

 

ところで、こうして家でじっとしていると、

ふと「忍耐」という言葉が頭に浮かんできた。

 

基督(キリスト)者として生きていると、

「忍耐」という言葉をよく目にするし、耳にするんだよね。

というのも、そもそも聖書(特に新約)にたくさん書いてあるからだ。

 

「忍耐」というと、一般的に

「嫌なこと、辛いことも辛抱強く我慢する」というイメージがあるけれど、

正直、僕はあまり好きな言葉ではない。

 

例えば、最近ではコロナ対策なのか、暑い中頑張ってマスクしている人がたくさんいて、

人によっては、同調圧力で他人にもそれを押し付ける。

しかも別にそれで感染者が減るわけでもない。

日本ではそのように、明らかに意味のない努力による

非合理的な「忍耐」がまかり通っている気がする。

 

努力していればきっといつか報われる!!

だからとにかく今は我慢だ!我慢だ!我慢だ!

みたいな。

 

 

しかし、聖書に関して色々調べているうちに、

日本人がイメージする「忍耐」と聖書が言う「忍耐」は

ちょっと違うんじゃないかと思うようになっていった。

 

少なくとも、日本人にありがちな「努力」「我慢」「辛抱」といったイメージで

「忍耐」を捉えてしまうと、

恐らく危険なのではないか…と思った。

 

「忍耐」とは、ひたすら神に身を委ねること

 

実際に、四福音書におけるイエス・キリストの言葉の中で、

「忍耐」「耐え忍ぶ」という単語が、一体どれくらい出てくるのか調べてみた。

 

すると…なんと!!その数…

たったの5回しかなかった。

 

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

マタイの福音書 10:22

 

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

マタイの福音書 24:13

 

また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

マルコの福音書 13:13

 

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

ルカの福音書 8:15

※新共同訳では「耐えて」が「忍耐して」と訳されているようだ。

 

あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

ルカの福音書 21:19

 

実際、それぞれの聖句の前後関係を確認したところ、

確かに、その言葉の通り

「どんな苦難や試練が自身の身に降り掛かっても、最後まで耐えることで救われる」

という意味で捉えるのが自然とは思うが、

4番目のルカ8:15で示されている「忍耐」に関しては、

必ずしもその限りではなさそうだ。

 

その中では、「御言葉の種が良い地に落ちるとどうなるか」について語られているので、

ここでの「耐える」というのは、

「途中で信仰を捨ててしまうことがないよう、自分自身を神に委ね続ける」

という意味のほうが近い気がする。

 

なぜそう思ったのかを、以下で説明しよう。

 

本当の「忍耐」は、神の前にへりくだること

 

どうやら、一説によると、

ヘブル語の「忍耐」には、「欠けている」という意味もあるらしい。

 

↓参考

 

僕はヘブル語が全くわからないので、自分で裏付けが取れないところが残念ではある。

しかし、確かに、聖書においては、人間の力でもたらされるものは何一つ存在しないし、

すべて神の恵みによるものとされるから、

僕自身が日本で生きてきて培われてきた「忍耐」とは、

また違うものなのかもしれない。

 

それに、信仰ですら、それを自分自身の力で持つことも、

保ち続けることも不可能ということが、

聖書を読んでいるとわかってくる。

 

それらは全て、神からもたらされる恵みであって、

人間の力で勝ち取るものではないのだ。

 

 

そのため、基督者があるべき「忍耐」とは、このようになる。

 

①苦難や試練など様々な問題と対峙した時にも、

信仰を投げ出して自力で解決したり乗り越えたりしようとするのではなく、

まずは「自分に欠けているものがある」と自覚すること。

つまり、「諦める」こと。

 

②諦めるとは、「明らめる」こと。

嘘偽りのない、まことの自分を明らかにするのだ。

 

③そして、神の前で自分の無力さを表明し、へりくだることで、

救いがもたらされる。

 

それが聖書の言う「忍耐」なのだろう。

つまり、ひたすら神にすがれば良いということだ。

 

よって、「忍耐」とは決して、「自分の努力でなんとかなる」とか

「非合理的でも根拠がなくても、ひたすら我慢大会していれば良い」とか、

自己満足に酔うためにあるものではないのだ。

 

台風と共に生きる沖縄県民の「忍耐」

 

今回、なぜ僕がこのようなことを考えたのかと言うと、

長い年月において継承されてきた、台風の中における沖縄県民の姿が、

聖書で言う「忍耐」に近いのではと思ったからだ。

 

つまり、台風などの災害を前にしたら、

自然の前では自分が無力であることを自覚し、

外に出て買い物したり仕事したり遊んだりするのを我慢して、

建物内などで、じっと事が過ぎるのを待つこと…

 

その感覚が聖書の言う「忍耐」に近いのではないか。

 

 

日本人が思い浮かべがちな、我慢大会の「忍耐」の意味では決して無い。

 

むしろ無理をしない、させない。

思い上がらない。

自然の驚異を甘く見ない。

 

神の前にへりくだって、あるべき場所に留まり、

限られた条件下の中で、最低限の家事や仕事など…

できることだけをすればいい。

 

その状態がまさに神の仰る「忍耐」なのかなと思ったし、

台風が来るたびに、学校や仕事を休んで建物内に引きこもるという最適な過ごし方を、

沖縄の人は自然と実行しているのだなと思った。

 

一見すると、「南国」と「忍耐」ってなんだか相容れなそうな印象だが、

台風が来た時の自分たちのあり方を心得ているという意味では、

忍耐強い県民性なのではないか。

 

↑伊江島のGIビーチ

 

まとめ:「いつかは過ぎ去る」という希望があるから、忍耐できる

 

というわけで、とんでもない暴風が吹き荒ぶ中、

聖書の言う「忍耐」について考えてみた。

 

「忍耐」とは、「自分自身が欠けた、無力な存在」であると

「明らかにする」からこそ、神に委ねられるわけだし、

その結果として、神がどんな苦難や試練も乗り越えさせてくれるのだ。

 

基督者の道ってね、実はスポ根とは全くの無縁なのだよ。

 

聖書は自分自身を明らかにする書物で、

しかも神直々による指南書でもあるから、

実はすごく合理的で、無理のない生き方に変わっていくしね。

 

それに「忍耐」っていう言葉にはね、

「希望」という意味も含まれているんだよ。

 

 

台風だって、ずっとこの状況が続くわけじゃない。

 

買い忘れたものがあると慌てて外出するんじゃなくて、

あるもので済ますようにすれば良い。

 

僕も停電したときのために、

風が弱いうちに米粉スコーンを作っておいたけれど、

結局停電しなかったから、普通にお菓子として食べた。

 

とにかく事が過ぎるのをじっと待っていよう。

そして、その状況ですらも楽しみながら過ごせるように

工夫していけば良いのではないか?

 

今回の台風は、どういうわけか進路がエグいので、

どれだけ沖縄近辺に居座るかわからないけれど、

いずれは過ぎ去るものだから。

 

 

沖縄県民の精神的支柱・ユニオ○ですら、

自然の脅威によって停電もするし閉店もする。

 

しかし、僕の精神的支柱・天の主は、

どんな頑丈な建物でも敵わないほどの堅固な砦。

 

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。

わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

詩篇 18:2

 

どんなに強い台風の中でも、主に身を委ねよう。

 

それではまた次回。

カミマニ〜♪