「人間の仕事がAIに奪われるかもしれない」ということで、
その技術がイラストの作成など、クリエイティブな分野の域まで到達してきた。
これまでの仕事をAIに任せる、もしくは機械化することで効率が良くなるのか、
セルフレジを導入するスーパーも多くなってきている印象だし、
とあるファミリーレストランのチェーン店では、ロボットが食事を運んできてくれる。
AIおよび機械と人間の共存は、もはや避けられない運命なのだろう。
そんな世の中の流れを見て、自分にしか生み出せない仕事は何なのか?と思い、
「AIと人間の決定的な違い」について考えてみた。
AIは人間に”寄せる”ことは可能
人間にあってAIに無いもの…
肉体はもちろんのこと、人格、人間的な優しさや温もり、感情、
過去の経験やその人独自のストーリー…など、
色々と思いつくことだろう。
しかし、AIが人間的な感情を持ち、
特定の一個人のように振る舞うことは、技術的に可能と思われる。
そうなると、肉体を除き、ある程度人間に近いキャラクター像を作り、
相手に共感を得ることも出来るだろう。
キャラクターや人間性、その人にしかない特徴などで、
顧客に好かれてもらえれば良いのだが、
それに相当するような”人格”をAIが持つことも出来るだろう。
漫画やアニメにも魅力的なキャラクターはたくさんいるので、
今は2次元の方が好きという人も多いみたいだし、
AIの人格が人間よりも好かれてしまえば、もはや為す術はなくなるだろう。
そうなると、本当の意味で「AIに持てないもの」とは、一体何だろうか?
人間にできて、AIにできないこと
それは「信仰心を持てるかどうか」だと思う。
無宗教、無神論者の方も「宗教かよ…」などと毛嫌いしないで、
どうか一度は目を向けてみてほしい。
「信仰」の意味と聖書に書かれていること
僕も基督(キリスト)者となり、信仰を持つようになってから、考えることがある。
「そもそも信仰心とは何なのか?」
まず、ネット上の辞書で「信仰」について調べてみよう。
[名](スル)《古くは「しんごう」》
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
このように、一般的な意味としての「信仰」とは、
「自分の信じた神仏を崇拝する」とあり、
「信仰心のある人」というと、何らかの神を信じているというイメージがある。
一方で、聖書では「信仰」についてたくさん述べられてはいるが、
特にわかりやすい箇所から引用してみよう。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
ヘブル人の手紙 11:1
「ああなったらいいな」という期待や希望は、誰にも持ち合わせているもの。
聖書の神はご利益信仰ではないので、御心に沿わない願いは叶えられないとされる。
しかし、自らが絶望の淵に立たされた時に救いを求めたい時や、
特定の誰かが良い方向に導かれてほしい時などに、
信仰心があることで、
「自分を救ってくれる存在がいる」「望んでいる事が叶うかもしれない」
などといった希望を持てるわけだ。
また、僕たちはどうしても「目に見えないもの」に対して懐疑的になりがちで、
時にはその存在を否定してしまいがちだが、
信仰心があることで、「目に見えない存在=神」がいると確信できる。
さらに、信仰心を持った人間の心の状態について、
最も的確に表現したものがこちらと思われる。
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ人への手紙 15:13
聖霊というと、基督者ではない人はピンとこないかもしれないが、
信仰心を持つことで、喜び、平和、望み…
これらが心に満ち溢れた状態となることができるのである。
このように、聖書は信仰の意味だけではなく、それを持つことで、
聖霊を通して、どのような状態を人間にもたらしてくれるかを教えてくれている。
AIは「信仰心」を持つことが出来るのか?
しかし、実際に信仰心を持つ前の自分と、
持った後の自分の心の状態を比較したところ、
その感覚は「言葉でうまく説明することが出来ない」と思った。
その独特かつ繊細な感覚は、神によってもたらされるものであり、
AIがその感覚を持てるとは到底思えないのだ。
確かにAIには、特定の思想や信仰を持つように「設定」をすることは出来ると思うし、
何らかの超自然的な現象に対して、
特定の反応をさせたり、感情を持たせたりすることもまた可能と思われる。
そのため、設定上であれば、
「何らかの信仰心を持っている」とすることも出来るだろう。
しかし、AIと人間の最も大きな違いとして、
「AIは人間が作ったものであり、人間は神が作ったものである」
ということが挙げられる。

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確かに人間の目から見れば、AIはAIで技術的にすごい面もあるけれど、
神によって作られた、神と似た姿の人間を超えることは出来ないと思う。
実際、僕は、人間が生み出すもの、作り出すものには限界があると考えている。
その理由については、また後日話そうと思うが、
どんなにAIの技術が発達したとしても、
上で説明したような、満たされたような感覚、言葉では言い表せない感覚を、
人工物であるAIに組み込めるとは思えない。
人間は、神が作ったからこそ、
この「なんとも言えない繊細な感覚」を味わうことができるのだろうし、
心の底からそれを感じ取り、感謝と喜びに溢れることが出来るのだ。
信仰心…こればかりはなかなか上手く言えないのだけれど、
“この感覚”がわかってもらえると嬉しい。
まとめ:AIは「信仰心を持った人間」に敵わないと思う
…というわけで、私コリュが思う「AIと人間の(肉体以外の)決定的な違い」は
「信仰心を持てるかどうか」であり、
さらに、それぞれ作り手が人間か神かで、そもそも大きく異なるものである。
神によって作られた人間は、一人ひとり価値がある存在だ。
コストや合理性などといった、世俗的な価値観に合わせなければ、
人間が本質的な部分で、AIに劣るはずはないだろう。
信仰心については、言葉でうまく言い表せなくて、非常に口惜しいのだが、
現在、信仰心を持っていない人も、ぜひともこの筆舌に尽くしがたい、
溢れるような喜びの感覚を味わってみてほしいと思う。