
雨を呑む者”コリュ”こと 天海夜 煌琉(あまみや こうりゅう)でございます。
2022年4月17日
この日はイースター感謝祭。
日本人にとってはあまり馴染みがないが、
クリスチャンにとってはお祝いの日とされている。
祝福に満ちたこの日に、沖縄の某ビーチでクリスチャンとして洗礼を受けてきた。
↑ちなみにこちらは昨年7月に北部のビーチで撮影した写真。
洗礼当日は違うビーチで受洗を行ったのだが、
撮影を忘れたのと、あまり天気が良くなかった。
教会の皆さんからの温かい祝福のもと、
無事に洗礼を受けることができて光栄に思う。
イエス様が大好きで、信仰心があることに間違いはない。
むしろ信仰心は日に日に増すばかりで、
現時点でクリスチャンをやめようとは微塵も思わない。
しかし、自分の中ではどこか冷めている感覚があるのだ。
その原因を突き止めるべく、
自分自身が今抱えている問題と、世の中のクリスチャンに対して思うこと
洗礼を受けるよりも大切だと思うもの
…などといったことを、
洗礼を受けるまでのエピソードを語りながら、考えていこうと思う。
洗礼を受けるまでの経緯
2022年に入ってから、クリスチャンの知人に教会へ連れて行ってもらった。
クリスチャンの知人は、コロナ騒動やワクチンに懐疑的な人であり、
僕と同じ考えを持っている人である。
その方とは昨年、コロナやワクチン関係のイベントで知り合ったのだ。
↓ワクチンに関する映画を観に行った時の話
(この時に同行した家族がクリスチャン一家なのである。)
そして、僕が当時信じていたスピリチュアルは危険で、
惑わしだということを教えてもらった。
最初はショックだったけれど、
どうやらそれは本当らしいという確信を得ることができた。
↓参考
それから教会に通ったり、
イエス様や聖書に関する話を聞いたり、
聖書や悪魔崇拝に関する動画などを観たりしているうちに、
どうやら創造主が真の神であって、
聖書がこの世でただ一つの真理なのではないか?
と思うようになったのだ。
そして、ある時、教会に小さな神棚を持っていって、
牧師に祈ってもらい、処分をしてもらった。
その後に、「洗礼の日程を決めよう」という流れになり、
特に強い抵抗は覚えなかった。
↓洗礼を受ける前に、家の神棚を処分した話
当時は、「僕なんかが洗礼など受けてよいのか?」という不安もあったが、
一方で、
洗礼を受けたからといって特に不都合なこともないし、
むしろ良いことだらけなのでは?
と思ったので、洗礼を受けることに決めたのだった。
イースターの日に洗礼が決まったのは、神の導きだと思う理由
そうして、洗礼の日程が決まったのだが、
不思議なことに、僕以外にも洗礼を希望する方が次々と現れ、
最終的に3人になった。
日本はクリスチャン人口が極端に少ない。
一度に3人も受けることは、ほとんど無いのだそうだ。
そして、洗礼の日にイースターの日を選んだのは、
狙って決めたでわけはない。
洗礼を受ける日として、「誕生日(4月18日)あたりがいい」と希望したのだが、
ちょうど前日に当たる17日が日曜だったので、
4月17日を洗礼日としたのである。
すると、その数日後にわかったのだが…
4月17日はちょうどイースターの日だったのだ!
他に洗礼者が続出したこと、
そして「誕生日の前日がまさにイースター」であることをふまえ、
「これはきっと神のお導きに違いない。」
そう確信したのだ。
…そうしてあっという間に当日を迎え、
無事に洗礼が済んだわけである。
皆にお祝いをしてもらえて嬉しいことは違いないし、
一応儀式を通してイエス様がいつでも共にいてくださるという確信を得ることができて、
心理的な安心感を覚えている。
…しかし、どこか釈然としないものを自分の中に感じている。
その理由を考えてみようと思う。
↑洗礼ってこんなふうにやるのかと思っていた
理由①クリスチャンへのカミングアウトは実社会よりも難しい
コリュはいわゆる「心は男、身体は女」のトランスジェンダーである。
LGBTQに関して聖書が何を言っているかについて、
色々な人の意見を見ることがある。
僕はLGBTQ反対派も、擁護派も、
意見として参考にはするが、どちらも正しいとは思わない。
聖書に関して、いろいろな解釈があること自体は良いのだが、
結局の所、誰しもが最終的な結論ありきで、
自分で都合よく解釈している可能性も高いからだ。
「正しい人」なんて誰一人としていないわけだし、
聖書もそう言っている。
人を非難して裁いている人もまた、
人を罪人だと裁く権利すら無いに等しい。
それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙 3:9)
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
(マタイ 7:1)
僕はそれまで、絶対に男として通すということはなくて、
「聞かれたら本当のことを言う」
というゆるいスタイルを取っていた。
しかし、今通っている教会には、まだカミングアウトしていない。
教会はどちらかと言えば保守的な考えのようなので、
どのような反応をされるかはわからない。
自分自身の罪が、彼らにとっても学ぶ機会だと考えてもらえればいいが、
「治したほうがいい」と諭される可能性もなくはない。
いずれにせよ、今後、神様からタイミングを示していただくことがあるかもしれないので、
自分から焦ってすることはないかなと考えている。
もしかしたら、無理に教会に通わずとも、
その分、聖書を読む時間をたっぷり設けるようにして、
ブログなどの発信を通して、人々に福音を伝えたほうが良いのかもしれない。
今では「まぁなるようになるさ」くらいの感覚でとらえているが、
いくら親切で心温かな人たちでも、本当の自分を受け入れてくれるかは不明である。
いずれにせよ、こういったLGBTQの問題は、古の時代から今日の時代まで、
全ての教会が築き上げてきた問題であることには違いないだろう。
それは僕を含めすべての人にとっても、向き合うべき課題になるのかもしれない。
②洗礼を受けるよりも大切なこと
僕自身の感覚から言えば、洗礼はあくまで「保険みたいなもの」だと思っている。
入っておけば心理的には安心だけど、
実際いざそれを使おうという時に、中身がなければ意味がない。
つまり、儀式として形だけの洗礼を受けたところで、
自分自身が何も変わってなければ意味がない。
自分自身の魂を成長させて、神の御心に沿った生き方を心がけていきたいのだ。
たとえ、とある人がイエス様を知ることができたとして、
ご自身と合った教会がなく、洗礼を実施してくれる牧師がいないとする。
そんな場合でも、聖書(御心)を理解したい、
信仰心さえあれば救われるのではないか?と考えている。
つまり、何が言いたいのかというと、
最も大切なことは、聖書を読み、信仰心を持つことである。
…と、僕は考えている。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠の命を持つためである。
(ヨハネ 3:16)
広大な自然は神の創造物であり、神は最高のアーティストだ。
まとめ:「洗礼」によって、神はご自身の存在を示されたため、僕は生まれ変わることができた
以上で説明したように、
洗礼を受けられたのは喜ばしいことだが、
今後の課題だったり、自分自身の信仰心(聖書を読んで行動に移すこと)だったり…
目を向けていかなければいけないこともたくさんある。
また、神は洗礼そのものの行為ではなく、
僕が神のことを知り、洗礼に導いてくださる過程の中で、
僕にその存在を示された。
そのおかげで僕は、生まれ変わることができた(恐らく)。
これにはまず「信じる心」がなければいけない。
「ただの偶然だよ」という言葉で終わってしまうからである。
しかし、どうにも「偶然」と思えないのは、
やはりきっと神は僕に「信仰心を持つとこんなことが起きるんだよ」
…と、示してくださったからだと思われる。
僕がこのように信じられるようになったのも、全て神のお導きであり、
神の恵みと偉大さに触れることができた。
そして、世の中のどんな偶像とも比較するほどもないくらいの、
深くて大きな愛と感謝の気持ちに満ちあふれている。
仲間の皆さんから素敵なプレゼントもたくさんいただいた。
…さて、無事に洗礼が済んで自分自身が生まれ変わった後は、
このブログも新しく生まれ変わる予定。
ブログは、ノンクリスチャンの時に書いてきた内容をどうするか考えている。
もしかしたら今の自分と違うと判断した内容に関しては、削除するかもしれない。
これまで応援していただいた方も、戸惑う部分はあるかもしれないが、
生ぬるくでも構わないので、今後も見守っていただけると嬉しい。
↑パフェもご馳走になった。美味かった。
それではまた次回!
どろんっ♪