
今もなお巨大掲示板やSNSでは、誰かに対する悪口や誹謗中傷が絶えない。
はたまた飲み会や井戸端会議でも、誰かの悪い噂話に花を咲かせることもあるだろう。
僕の考えでは、「基本的には、個人に対する悪口は言ってはいけない」と思っている。
個人を名指しで悪く言うのではなく、
その人の行動そのものや、特定の考え方の集団や人々を批判するなら、まだ良いかもしれないが、
本来であれば、誰かを罵倒したり、その人間性を否定する権利は誰にもないだろう。
僕は過去に、「人の悪口を言うこと」や「自分が悪口を言われた時の考え方」
について、いくつかの手記を書いてきた。
中には多くの反響をいただき、コメントをいただくこともある。
恐らくコメントをくださった方々というのは、
「人から悪口を言われること」に悩んでいたようだ。
悪口を言われているか気になるということは、人間関係に悩んでいるとも言えるね。
もはや現代日本人の大半が、この悩みを抱えていると言ってもいいだろう。
ちなみに上記はいずれも、僕がノンクリスチャンの時に書いた手記なのだが、
神を信じた今これらを読んでも、
当時の自分が言いたかったことは、まぁまぁわかるというか、
“一人間としての考え方”としては、理解していただけるかとは思う。
しかし、今では自分の考えではなく、神の御心として、
人を誹謗中傷する者について、聖書は何と言っているのか?
考えていきたいと思う。
特に今日はネットリンチやいわゆる「指殺人」などの問題が深刻である。
芸能人はもちろん、漫画やアニメなどの作品や人気キャラクターにも、
アンチ専用の掲示板が立てられているのを目にする。
SNSでも大型掲示板でも、有名人や一般人に限らず、
いわゆる失言や問題行動、不祥事を起こした人物が晒され、
集中攻撃されることは、当たり前に行われている。
僕が思うに、基本的にこのようなアンチ活動というのは…
「この人の性格や態度が気に入らない。」
↑(本音:もっとこうだったら好きになれるのに!)
とか
「この人が評価される理由が理解できない。」
↑(本音:私自身や私の好きな人がもっと評価されてほしい!)
とか…
他人に対する忠告や個人的な願望が、
愚痴や悪口、批判として現れているとも言える。
そのため、不特定多数の人間による個人への批判を、”忠告”と捉えて考えてみよう。
(↑かなり好意的解釈ではあるが)
人に対する忠告とは、本来ならどのようにするのが望ましいのか。
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
マタイの福音書 18:15・16
(↑17節ではさらに「それでも言うことを聞かないなら教会へ告げよ」
といった内容が続くが、今回は省略する。)
基本的に情報というのは、証拠となる写真や音声、データが無い限り、
自分と距離が遠くになればなるほど、信憑性が薄くなる。
結果、憶測が憶測を呼ぶことに加え、皆が自分の感情のままに人を裁くため、
ますます一人の人を傷つけてしまうことになる。
某消費者金融ではないが、果たして…そこに愛はあるのか?
ここ最近もネットでは、とある有名人の不倫騒動が話題になっているようだが、
本来であれば、その人物に対して直接叱責や忠告をしても良いのは、
問題の当事者はもちろん、その人にとって距離が近く、
その人の人となりや、一連の事情をよく知った少人数の人物のみで良いはずである。
いっさいのことを愛をもって行ないなさい。
コリント人への手紙 第一 16:14
たとえ自分は”忠告”のつもりで言葉を発したとしても、
そこに愛が伴わないのなら、改善も期待できないだろう。
特に有名人やネット上など、自分にとって距離がある相手に対しては、
ほとんどの人が、他人の不幸を楽しんでいるだけというか、
個人的な感情で叩いていることがほとんどだろう。
しかし、それは人としてあるべき姿なのだろうか?
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
ヤコブの手紙 4:7・8
口は災いの元。人の振り見て我が振り直せ。
…とはまさにそれだ。
相手が誰であれ、神に似せて造られた人の悪口を言うことは、神を侮辱することである。
神をのろうことと、神を賛美することは共存できない。
お偉いさんに対しては媚びへつらいながら、
立場の弱い人間を冷遇しているような人間など、誰からも信頼されない。
それと似たようなものだろう。
基本的に人は自分に甘く、他人に対しては厳しくなりがちだ。
自分にとって理解しがたいことについては特にね。
他人を裁く前に、まずは自分自身を省みること。
自分はその人に対して、どうこう言えるほどの立場にあるのだろうか?
過去から現在までを振り返って、程度の差はあれど、
誰かを傷つけたり欺いたり罵ったり…
何かしらの「やらかし」をしているはずだ。
あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。
ヨハネの福音書 8:7
姦淫の罪を犯して捉えられた女を、イエス・キリストはかばったのだ。
罪の内容はさておき、誰かが攻撃されていたら、
その人を守ることができる人間が、本来あるべき姿なのかもしれない。
…というわけで、今回は
「誹謗中傷…特に集団で人を攻撃してはいけない理由」
について、聖書を用いて考察してみた。
僕も正直、口が悪い自覚があるので、
配慮が足りなかったり感情に任せてしまったりで、
不要な言葉を発してしまうこともあるかもしれない。
しかし、平和な世界や心の平安を実現するためにも、
人体で一番の暴れん坊将軍・舌を制御できるようになりたいものだ。
いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
ペテロの手紙 第一 3:10・11