
僕は全くと言っていいほど人を誉めない。
厳密に言うと、人の良いところを言ったとしても、
「誉めている」感覚がない。
確かに、相手の良いところを相手に伝えて喜んでもらえるなら、
その行為自体は好きだ。
しかしそれは「相手の一面」「そこから自分が考えたこと」という事実を
相手に伝えているだけなのである。
意見や考え方の相違はあるかもしれないが、
それを伝えることで、新しい価値観や新しい一面が生まれるかもしれないしね。
それから、最近では苦手な人でも良い部分がないか探すようにしている。
厳密に言うと、相手のことを少しでも理解したいというか、
その人の人間性をできるだけ多く把握して分析をしたい。
…といった気持ちが強いのかもしれない。
こういった一連の研究をしていくことで、自分にとって新しい発見があるし、
ネタ作りの参考になるからだ。
クリエイターの性だよね(汗)。
いや、ひょっとしたらひょっとすると
その人が有している人間性には、
もしかしたら「良い」も「悪い」もないのかもしれない。
というのも、以前の記事↓でも言及をしているが、
全ての物事に意味付けをしているのは他でもない”自分”だから。
特に人間の長所と短所なんて紙一重なわけだし、
自分の都合の良いように「ここは良い」「ここは悪い」と判断するのも
なんだか相手に失礼な気がするのだ。
上の図で示しているように、どちらもその人の一面であることには変わりないからね。
好き、嫌いで判断するなら、それは個人的な好みの問題だから良いけどね。
人間的にどうしても好きになれない人物なら、
できるだけ関わらない、離れればよいだけのことだし。
ただ、自分が今関わっている人がどんなキャラクターで、
どんなことに喜びを見出し、
逆にどんなことに弱いのか(怒るのか)は、
よく見るようにはしているかな。
さて、話を「誉めること」に戻すと…
以前、「嫌われる勇気」を読んだ時に、
人を誉めることが必ずしも良いこととされないことを知った。
↑嫌われる勇気[岸見一郎、古賀史健・著]
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確かに誉めるという行為自体、
どことなく人を下に見ているような印象さえあるしな。
「誉めること」が度を過ぎてしまうとただの馴れ合いになるし、
個人的にそれは最も勧めないコミュニケーションだ。
だから、僕は人のことを誉めない。
その代わり、「あるがままの相手の一面を認識して、受け入れる」
ことを重視するようになった。
相手の一面を「こうなのだな」と正確に認識する。
そして、その事実を受け入れて、
自分がどう解釈しているのかをフィードバックする、
あるいはメモなどに残しておく。
「いいね」という感情ももちろん大切だけど、なぜ自分は「いいね」と感じたのか?
それを分析していくことで、
自分自身のことがわかるようになってくるからだ。
自分のことがハッキリわかっていれば、
どんな情報や意見を目にしても、ブレることもなくなるし。
自分が確信を持って行動して、
誰かが温かくその行動を見守ってくれているなと感じているのなら、
誉められるという行為は大して必要としなくなるのかもしれない。
最近では特にそう思うようになってきたのだ。
でも人間は何処かでつながりを持っていたい生き物である。
誰かからの言葉や反応が欲しいし、
それがないと活動を辞めてしまう人だってある。
僕は数年前から試行錯誤しながら形を変えつつ発信活動を続けてきているが、
最近では何の反応もなくても全く問題ない。
自分は自分なりに狂った世界で苦しんでいる人々の役に立てれば
それで良いと思うからだ。
ただし、もし何か新しい発見を見つけたり、
逆に「いやこれはこうだろ」と思うことがあったら、
その際は遠慮なくコメントを下さい。
とりあえず、時には反応しづらい内容も躊躇せずに書いているわけだが、
何も反応なくてもめげない(笑)。
現に、「サイレントマジョリティが抱える闇」という見えない怪物のせいで
多くの人が生きづらさを感じている。
そんな怪物の弁慶の泣き所に
ジョブを打ち続けていくに意味があるからね。

弁慶の泣き所?

…足の小指でも良いかも。
