ジェンダレス妖怪”コリュ”こと
天海夜 煌琉(あまみや こうりゅう)だよ。
今回は、父親が亡くなった時の話の最終回…ということで
引き続き、考えたことを書いていきたい。
前回までの内容を読みたい方はこちら↓
父の遺体の火葬後、葬儀は一週間後に無事とり行われたようだ。
「骨だけだから良いよ」とのことで家族に気を使ってもらい、
僕自身は火葬前の立会のみで、その翌日に沖縄へ帰ったため、
葬儀に参加しなかったのだが、
今回の件で、以下のような疑問や学びがあった。
・父の死後、もしコロナが陽性(本当は陰性)と判定されていたら?
・世の中における過剰なコロナ対策が、一般の入院患者へ与えた弊害
・死に場所の選択や入院の拒否は、本人の意思を尊重されるべき?
・謎の現象(ただのミス?)に込められたメッセージ
・自分らしく好き勝手に生きて、皆に愛されながら一生を終えるということ
前回までに書いた内容の中にも、気付きや学びは色々書いてあるが、
今回をもってまとめることで、自分の中で最後の整理をつけたいと思う。
①亡くなったコロナ陽性患者の方々は、本当に「陽性」だったのか?
これは以前から調べている中で、疑問に思っていたことだ。
幸い父親は、コロナは陰性とされたわけだが、
それでも病院側の規則により面会が制限されていた。
僕の場合、もう少し早ければ、生前に一回会えるチャンスがあったのだが、
結局、今年父親と会ったのは、火葬の直前のみ…つまり亡くなった後である。
幸い、死後のPCR検査により、父は陰性と判断されたため、
対面ができただけでも幸運だと思うが、
もし仮に「陽性」と判定されてしまったのなら、お別れすらもできなくなる。
そのため、誤診での偽陽性や、水増し目的での陽性とされたのであれば、
火葬される前にどこかへ問いただす必要があると考えていた。
しかし、実際どこへ?誰へ?訴えれば良いのかわからないので、
もしそうなったらどうしようと、
道中の飛行機や電車の中で途方に暮れていたのだ。
結局のところ、杞憂に終わったわけだけれども。
しかし、仮に検査結果が「(偽)陽性」で、本当は陰性だった場合…
「最後のお別れの機会」すらも、奪われてしまうことになるのだ。
今、コロナで亡くなったとされる方は
死ぬまで家族が本人と会えず、
死んでからも骨になるまで対面できないと聞く。
しかし、その亡くなった方々は本当にコロナだったのか?
仮に、PCR検査で陽性と判定されたとして、
もしこの結果が陽性ではなく、偽陽性だったら?
もしかしたら寿命や他の病気で亡くなった可能性も十分有り得る。
とりあえず、PCR検査がなんなのかもよくわかっていないのに、
「陽性になっていないか不安だからPCR検査を受けたい!受けなきゃ!」
などと考えている人は、これ↓観ましょう。
陽性患者の最大90%の人には、ほとんどウイルスなど無い…。
ということは、ウイルスがほとんど無いのにも関わらず、
隔離されて死亡した人もいるということである。
そんなことで、家族として、人としての最低限の権利が失われることがあってはならないし、
もし死亡患者の本当の原因がコロナではなかったのなら、遺族は怒って当然かと思う。
ニュースなどを見る限り、死亡した患者のほとんどが高齢者である。
もし老衰による肺炎の死亡であれば、天寿を全うしたことになるし、
「陽性」とさえ判定されなければ、
遺族との最後のお別れも、無事に叶えられたことだろう。
コロナ陽性患者の遺族にとっては酷な現実となるかもしれないが、
本当なら叶えられた「一生に一度しか無い、最後の対面」は、
杜撰な検査によって台無しにされた可能性も考えられる。
自分は叶えられたからこそ、同じ家族を亡くした人々のことを思うと、
自らの利権しか考えない者たちへの怒りがこみ上げてくるのであった。
(コロナの利権云々についてはまた別の機会で)
②過剰な対策は、免疫力を落とすのではないか?
感染症に罹患した患者の場合、面会に制限があるのは仕方がないとは思うが、
そうではない場合の入院患者との面会時間も限られてしまっている。
恐らく、ほとんどの病院がそうだろう。
入院中の面会に関しては、
病院側も好きで制限を設けているのではなく、
政府からの要請であることは承知している。
そのため、病院側に対して、恨みの感情などは全く無い。
むしろ感謝しているくらいだ。
(僕は一度も担当医などに会ったことはないが)
しかし、家族の面会など、過剰な制限を設けることは
患者からコミュニケーションを奪い、
閉鎖された環境で先の見えない時間を過ごし、
患者の免疫を下げ、
生きる気力を失わせるのではないだろうか。
家族によると、リハビリテーション病院に移された数日後に面会に行ったら
どうやら父は不機嫌だったとのことなので、
「ほったらかしにされている」
などと、被害妄想に陥っていた可能性も十分有り得る。
筋力の著しい低下により、ほぼ寝たきりでろくに話すこともできないため、
「自分は一生このままなのか」
と、人生に絶望したかもわからない。
それでも、父は家で介護ができる状態にまでなっていたようなので、
本人の努力次第では、少しでも良くなるだろうと思っていた。
そのため、もし家族との接触が増えていたら、助かったかもしれない。
そう思ってしまったのだ。
③病院へ入院させることは本当に正しいのか?
(ちなみに③以降は、コロナはあまり関係ない。)
入院前、「好きにさせてくれ」と父が頑なに病院を拒んで、周辺整理をしだした。
普段から自宅で自作の謎の発明品?を作っていた父。
ちなみに発明家ではないのだが、
体調が極度に悪くなっている時でも、おかしな創作物を作っていたというのだ。
その様子を聞く限り、
「なんとしても自宅で死にたかったのだな」
と思った。
家族や親戚皆で説得するほど病状が悪化していたので、
結局入院することにはなったが、
病院に行きたくないという気持ちはとてもわかる。
ただ、最終的には本人自身も入院を希望したので、助かりたい気持ちが勝ったのだろう。
よく孤独死の問題が取り上げられるが…
「自宅で息を引き取れる」
ある意味ではそれも、本人にとっては一つの幸せなのかもしれない。
欧州では尊厳死や、本人の選択を重要視されるという。
ガンなど身体が蝕まれるタイプの病気ではなかったのだし、
早めに入院して治療していたら助かったのかもしれないが、
家族ともほとんど会えなくなる上に
赤の他人と一緒に自宅以外の場所で過ごさなきゃいけないストレスを考えると、
死に場所を自分で選んで、
不安や恐れ・苦しみと闘う方がマシだったのかもしれない。
しかし、それは本人にしかわからないし、
終わった後に「どうすることが良かったか」なんて
軽々しく判断できるものでもないだろう。
④どんな出来事でも「自分へのメッセージ」と捉えよう。
家族が父の扱いに閉口していた頃、僕はどうしたのかというと、
まぁ周りから見ればマイペースに見えるだろう。
父の容態が快方に向かっていた7月に帰省したのだが、
ちょうどその日に父はリハビリテーション病院に移ることになったと聞いた。
リハビリテーション病院で面会できると思ったら、
面会が月一回までしかできないというのを、まさに前日に聞いたのだった。
そのため、その時の面会も叶わなかった上に、
約一ヶ月後、容態が悪化した後も、結局、最後まで父と会うことはできなかった。
連絡を受け、7月に沖縄から実家の関東へ来た際、
容態が良くなってるようだし、面会制限でどっちにしろ会えないし、
母との駅での待ち合わせ時間もだいたい決めていたので、
「ちょっと気晴らしに観光でもするか」と、川越まで足を運んでいたのだ。
しかし、9月、亡くなった数日後、撮影した写真をパソコンで確認していたら、
保存したと思っていた写真の半分以上が消えていたことに気づいた。
もしかしたらSDカードからパソコンへコピーする際に
データの移行を失敗してしまった可能性もあるのかもしれないが、
普段、このようなミスはあまりしない。
データ移行後、カードのデータはすぐに初期化させてしまうため、
PCへののコピーが完了したか、ちゃんと確認するからだ。
PCへの移行前、カードにきちんとデータが入っていたのは間違いないので、
やはり移行に失敗した上に確認を怠ったとしか考えられない。
↑旧山崎家別邸で撮影した写真もほとんど消えていた。
建物はもちろん、ステンドグラスが美しかった。
めちゃくちゃ悔しかった。
悔しかったけれど…
今思えば、
「これはなにか意味があって起こったことではないか?」
とも考えるようになった。
僕自身、霊的な意味でのスピリチュアルな事象には半信半疑だが、
より良く生きる意味での、スピリチュアルな視点を持つことは重要なことと考えている。
そのため、もしかしたらそれが、父のメッセージだったのかもしれない。
…といっても、正直、どんなメッセージなのかはわからないけど。
もし、「俺はこの先あまり長くないから、後は頼んだ」的な意味であれば、
もっと早く気づいていれば良かったかもかもしれないな。
消えた写真には、川越氷川神社の風鈴などの写真もあったし、
すごくショックだったのだが、
川越自体、特別アクセスが悪い場所でもないし、また来る機会もあるだろう。
しかも、その日は雨が降っていたため、
川越までまた足を運ぶ機会があったら、天気の良い日に再度訪れたい。
再び訪れたその時に、今回のことを思い出すかもしれないし、
伝えたかったメッセージの内容もわかるようになるかもしれない。
⑤どんな人間でも愛される価値はある
父の火葬時に立ち会ったのはたった11人。
正直、以前は父親のことを本気で憎らしく思っていた時期もあった。
僕自身、元々が良い子ちゃん気質なので、表面は平静にしていたけど、
なぜ母親はあんな男と離婚しないのかずっと疑問に思っていたわけだし、
腹の中で「あの☓☓野郎」と罵っていたわけである。
しかし、地元から離れ、ここ10年くらいはどうでも良くなってきた。
一個人として父と接するようになって、
案外こちらに干渉してこない人物だとわかったからだ。
しかし、人間的には決して「できた人」とは言えない。
ワガママで、頑固で、気分屋で、皆が振り回された。
それまでは、自分の父親を恥ずかしく思うこともあった。
父親が尊敬できる人たちが羨ましくて仕方がなかった。
しかし、父親なんて尊敬できる人物じゃなくて良いと気づいたんだ。
それに、今回集まった人物は皆、父のことを愛していた。
これだけやりたい放題やって死を惜しまれるのならば、
自分だって好きなように生きていって良いはずだ。
ちょっと微笑ましくも思い、羨ましくも思えた。
それに、今考えると、
本人が、本人らしく居続けられたことが、一番誇らしい。
だから自分も、人の顔色を伺いすぎて自分を殺すことが無いよう、
悔いの無いように、好き勝手やって生きていこう。
それにな、こんなに変わり者で破天荒な親父とは
赤の他人だったら絶対に知り合うことすらできなかったかもしれない。
恥ずかしいからこれ以上は何も言わん。
代わりにこの曲を贈ろう。
A RI GA TO NA