四福音書の”記述違い”は 実際に起きた出来事である証

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ

 

四福音書には、イエス・キリストの生涯と復活に至る過程までが記録されていて、

それぞれの書き手によって視点や切り口に違いはあるのだが、

同じ箇所を説明する際に、細かい部分に明らかな”記述の違い”があることがわかる。

 

 

具体的には、上のイラストで示している箇所以外にもいくつかあるのだが、

細かい違いについては調べればわかることなので、ここではあまり詳しく触れない。

 

しかし、こういった”記述の間違い”を理由に

「福音書の内容は作り話。イエス・キリストも架空の人物だ。」

「イエス・キリストは復活していない。ただの人間だ。」

などと主張する人達もいるようだ。

 

しかし、ここで一度、あなた自身に置き換えて考えてみてほしい。

 

自分が何か一つの出来事を目撃したとして、

その感想や報告をする時に、他の人の記述や感想と全て一致したことってあるだろうか?

 

 

ここで一つ例え話をしたいと思う。

 

もしあなたが音楽を好きだった場合、

好きなアーティストや好きなミュージシャンが少なからずいることだろう。

そのアーティストのライブに行くことができなかった時に、

ブログやツイッターなどで、ライブに参戦したファンの人達の感想や

レポートを見ることがあるかと思う。

 

 

例えば「とある曲でボーカルとギターが絡んだ」という事実が、

ファンの人達によって報告されたとする。

 

ファンの人達はまだ興奮が冷めない中で、そのライブで自分が目撃したことを

SNSなどで報告するわけだが、

MCの内容やパフォーマンスなど、同じ一つの出来事を取り上げてみても、

人によってその内容が微妙に違うことがある。

 

演者の表情一つにしても、ある人にとっては満面の笑みに見えても、

ある人にとってはちょっと困った顔に見えることがあるかもしれないし、

苦笑いに見えてしまうこともあるかもしれない。

 

あるいは、演者がそのパフォーマンスに至るまでに、

客に対する煽りの有無やちょっとした仕草など、挙動の記述に違いがあるかもしれない。

 

演者が発した言葉や、MCの内容についても同様で、

何か特定の発言をしたことはわかるのだが、

人によって言葉のニュアンスが違うことがある。

 

たくさんの情報が流れてくると、一体誰の感想やレポートを信じれば良いのか…

迷うこともあるだろう。

 

 

当然のことであるが、人によって違いが見られる理由は実に簡単なことで、

多くの人が他の誰でもない、自分自身の視点でその出来事を目撃し、

自分自身の記憶からそれを思い出しているからである。

 

人によっては記憶が曖昧で、他の参加者と情報交換をしたり、

他の人のレポートを参考にしたりして、感想を言うこともあるだろうけれど、

人の記憶が絶対的なものでない限り、細かい部分において誰が正しいかなんて、

誰にもわからないのだ。

 

もしかしたらそれらのレポートや感想のうち、

誰か一人は完全に正しいことを言っているのかもしれないが、

客観的にそれが正しいかどうかを調べるには、映像を確認するしか無いだろう。

 

しかし、日本のライブイベントでは、録音や録画は禁止されていることが多いため、

ライブ直後は、ほとんどの人がライブ映像で確認することが不可能な状態である。

 

そのため、異なる人間の記憶と視点、それらを元にして証言された内容に、

違いが見られるのは当然のことなのだ。

 

ここで注意したいことは、パフォーマンスの順序や表情、言葉のニュアンスなど、

細かい部分における多少の違いは大して問題ではない。

 

最も大切なことは「多くの人が同じ出来事を目撃した」ということ。

そして、それが揺るぎない事実だということだ。

 

 

音楽ライブの例で例えると、

「メンバー同士がステージ上で絡んだ」

…その出来事が多くの人の目に触れたのは紛れもない事実であろう。

 

仮に他の部分において、ファンの間で一致しない記述(しかも思い違いの可能性も有り)が見られたとしても、

その大きな出来事が事実である限り、

その場にいなかったファンにとっては、まさに、喜ばしい知らせなのである。

 

 

この原理を四福音書に照らし合わせて考えると、

「イエス・キリストが十字架につけられ、3日後(数日後)に蘇った。」

という内容が、注目すべき出来事としていずれも一致している。

 

そのため、「記述が一致していない=事実ではない」ということにはならない。

 

キリストとサイモン・キニナーゼ(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ・作)

 

当時はビデオカメラやスマホのように、

映像を記録できる媒体はもちろん存在していない。

だからこそ、記者自身の記憶や人々の話などを頼りに記録された4名の”レポート”に、

違いが見られるのは当然のことだし、

その時代にイエス・キリストが生きて、その御業を成し遂げたことの臨場感や

リアリティを感じることが出来るのだ。

 

そう考えると…

聖書とはいかに現実的な書物では無いだろうか?

 

 

ところで仮に、内容が完全に一致していたとして、

かえって作り話のように見えないだろうか?

 

それはそれで

「4人が口裏を合わせて書いたに違いない。」

「記述が全く同じなのは、原本(作り話)が存在している証拠だ。」

などと言って、疑う人は疑うだろう。

 

福音書…というか聖書全体において記述に矛盾が見られるからといって、

それが必ずしも事実性を否定することにはならないし、不信仰の理由にはならない。

 

信じる人は信じるし、

信じない人は信じない。

 

ただそれだけのこと。

 

 

聖書を読む時は「木を見て森を見ず」の態度ではいけない。

 

一つ一つの木をいちいち吟味し、

「桜」のプレートが貼ってある木に対して

「これは桜じゃない!!イチョウだろ!!」などと言っていては、

その森の奥深くに隠された宝物…

つまり、神からのメッセージを見つけ出すことは出来ないだろう。

 

子供のように素直で柔和な心を以て、神と向き合うこと

それが最も重要なことなのだ。

 

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