
「奇跡」を売りにして信者を集めようとする教会や牧師の話やニュースを、ちらほら目にする。
中には”やらせ”でインチキ奇跡を演出し、
人々をカモにしている悪質な聖職者も存在するようだ。
運良くそれらが明るみになった場合でも、
無神論者などが、そのような一つの側面だけを目にして、
「宗教は詐欺」だとか「これだから宗教はいらない」だとかを
安易に結論付けてしまいがちであり、
ますます神から人を引き離す結果となってしまう。
いずれにせよ、「偽の奇跡を演出して信者を集めて儲けよう」などという考えは
自己中心的な欲望によるものであり、
「悪魔から出た者、偽り者(ヨハネ福音書8:44)」である。
奇跡を偽装した詐欺以外にも、性犯罪を行っている聖職者や、
聖書を悪用して嘘を広めている偽預言者などもいるわけであって、
僕たちは「羊」として神の声を聞き分ける必要がある。
さて、「奇跡」について、僕自身の考えでは…
たしかに「奇跡」はあると思う。
しかし、気をつけなければいけないこととして、
「奇跡」というのは本来、人の力では成し得ない力、
理性では説明がつかないような、超自然的な現象を指す。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ヨハネの福音書 14:10-11
とあるように、言葉によって信じることが出来なければ、
奇跡(わざ)を信じることによって、神を信じることが出来る。
つまり、「奇跡」は、神を信じるに至るための”手段”であって、
奇跡を体験することが”目的”にならないようにしたいところだ。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコの福音書 1:15
日頃からへりくだり、神の存在を信じていた人は、
上記のような言葉だけでも、福音を信じられるだろうし、
たとえ何か特別な不思議体験をしなくても、信仰生活を続けることは出来るだろう。
しかし実際には、人間というものは「奇跡」を体験しないと、
人ならざる者の存在を実感することが、なかなか出来ないわけである。
「奇跡」は、そんな我々人間のためにもたらされた、
神の存在、及びイエスが神の子である証であり、恵みと喜びなのであり、
それ自体が本質的なわけではないと思う。
それでは、一体何が本質的なのかと言うと…
それは、「悔い改め」である。
「悔い改め」というと、ネガティブな響きにも聞こえるが、
「神のもとに立ち返る」ということである。
我々人間はすこぶる欲望に弱い。
感情的になれば、自己中心的にもなるし、すぐに罪を犯す。
そのたびに罪悪感と不安がよぎる。
「自分なんか本当にダメでどうしようもなくて…
神に見放されてはいないだろうか…。」
人々を神から引き離そうと、耳元で悪魔が囁いてくるのだ。
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れていき、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
マタイの福音書 3:8〜10
悪魔は、イエス・キリストだけを試みたのではない。
我々にも同様に、絶えず悪魔の誘惑が襲ってくる。
時にはそれに負けてしまうのが人間である。
しかし、神から離れさせる試練に打ち勝つために、神により頼むのだ。
その度に私たちは、イエス・キリストがヨハネのバプテスマを受けた際に、
天の父が彼にかけた言葉を思い出す。
「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」
マルコの福音書 1:11
一方で、「奇跡」にやたらフォーカスしている人達というのは…
イエス様はなぜバプテスマを受けようと思ったのか
イエス様が「わざ」とともに人に述べ伝えていったことは何か
なぜ自分自身が神に愛されているのか
…など
こういった基本の部分を理解していないか、想像に至っていない、
もしくは初心を忘れているのではないかと感じる。
「奇跡」を体験してもしなくても、日常的に悔い改めること。
そして、こんな自分でも天の父に愛されているのだと実感すること。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
ヨハネの手紙 第一 4:18
確かに、思いもよらないところで、奇跡的な体験がもたらされたら、
非常に喜ばしいことではあるのだが…
今日もきれいな花が咲いている
とか
近所の子どもたちが元気に登校する姿が見れた
とか…
毎日のちょっとした出来事、ふとした瞬間にも
「奇跡」や「愛」を感じるようになりたいものだ。