僕が「聖書の矛盾」を信じられるようになった理由

僕がイエス・キリストを信じるようになってからある時、

よくよく調べたら、「聖書には矛盾した箇所が多い」ということを知り、

批判的な意見を取り入れることも必要だと感じ、疑ってかかるようになってしまった。

 

今でも、聖書に対して批判的な意見を目にしたとしても、特に不快な気持ちにはならない。

自分もかつてはその人と同じように思っていたから共感しやすいし、

新たな視点を得られて、むしろ感謝の気持ちが生まれることのほうが多い。

 

もちろん、信じる人達の人格を否定したり、人の信仰心を無下にしようとしたりなど

悪意ある内容はスルーするけど、そのように言いたくなる気持ちも理解はできる。

 

 

しかし今では、人間の視点であれこれ整合性を取ろうとせずに、

聖書を文字通り…というか、もっと純粋な気持ちで読もうと考えるようになった。

 

この世における論理性や合理性を重視するのではなく、

聖書は霊的に理解するものなのだと、納得できるようになったのだ。

 

なぜ聖書は矛盾があっても問題がないのか…

どうしてクリスチャンは、人間の目から見て科学的ではない、

非合理的な現象も信じることができるのか…

 

長らく疑問に思っていたそれらの答えの一つが、

矢内原忠雄氏の「キリスト教入門」に記されていたのだ。

 

そこで我々は、宗教の純粋性のために、非合理性と道徳性といふ二つの要素を重要視する必要を知るのである。もしも人間の理性で凡てのことを処置出来ると言ふならば、宗教の必要はなくなるであらう。いはゆる合理的宗教は、真の意味では宗教といへない。キリスト教から奇蹟的要素を除いて、我々の理性で納得出来る道徳的要素だけを残したものなど、これは宗教でない。これは一つの道徳の教に過ぎない。人間の理性を超えたもの、霊的生命の欲求、これが宗教の本質であり、宗教の存在理由であつて、これ以下のものは真の宗教ではない。そしてこのやうな霊的宗教であつてこそ、「汝の敵をも愛せよ、」という至高道徳が教へられ、また教へられるだけでなく、その実行の能力さへも与へられるのである。神を信ずる信仰を背景にもち、それに基く道徳訓と、さうでない道徳訓とでは、その内容の高さにおいても、実行力においても、格段の差があるのである。

引用元:【復刻版】矢内原忠雄の「キリスト教入門」 矢内原忠雄・著

(※旧字体の漢字は新字体に修正済み。)

 

つまり、聖書も非合理性と道徳性があるからこそ成り立っているものであって、

人間の理性だけで理解できるものであれば、

その中に書かれている奇蹟的な事象は、ただの作り話や誇張に過ぎなくなる。

 

もちろん、ただ道徳的な教えを重視するものであれば、作り話でも構わないのだが、

上記にあるように、「人間の理性を超えたもの」「霊的生命の欲求」があるからこそ、

宗教すなわち聖書の存在意義があるのである。

 

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」

マタイの福音書 22:36-39

 

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネの福音書 13:34

 

上記の他にも、聖書には「愛」についての記述がいくつか見られ、

イエス・キリストは、互いに愛し合うことを最重要視している。

 

自分にとって敵となる人物をも、裁くことなく愛せるようになるには、

人間の理性や理屈だけではない、むしろそれらをはるかに超えた、

至高の道徳…神の力がないと実行に難しいだろう。

 

この世の俗物や欲、執着といったものを

完全に捨てられるようになるためにも、聖書の霊的な力は必要である。

 

この世の自然はすべて神による創造物…心からそう思えるだろうか?

 

また、世の中には、理性や常識において説明がつかないような現象が、多々あるのも事実であり、

人間の力だけで理解しようとする姿勢は、自らその限界を認めてしまうことにもなる。

 

僕自身ももともとトマス並みに疑り深い一面がありはしたが、

時には「素直に受け入れる」ことが大切だと思ったのだ。

 

もちろん、世の中には詐欺師がごまんといるわけで、

聖職者だって決して例外ではないから、気をつけないといけないけどね。

 

 

というわけで、「聖書の矛盾を信じられるようになった理由」について話したが、

僕自身は、矢内原氏の本だけではなく、それまでの体験や他で見聞きしたのも含めて、

聖書は霊的に理解するものだと納得することができた。

 

そのため、聖書は一見、人間にとって非科学的かつ非整合性な内容に思えるが、

「神の目から見て矛盾していない」

という解釈は十分にあり得ると思ったのだ。

 

人間の頭だけで理解しようとすると、それこそ頭打ちになってしまうだろうし、

確実に”詰む”だろう。

僕も最初は真理を知るために論理性や合理性を求めてしまったため、

かえって挫けてしまいそうになった。

 

そしてわかったことは…

たとえ非信者から見て、洗脳されているように見えようが、

信仰心を保ち続けるには、「信じること」…これに尽きるのだ。

 

 

…ところで、宗教という言葉を使いはしたものの、

僕自身は何らかの教義を守らないといけなかったり、

その戒律によって人を断罪するような「宗教」は嫌いだ。

 

今話題の某教会に限らず、一般の教会だってカルト化は全く無縁とは言えないだろう。

 

もちろん、律法を守ることは大切ではあるが、

信仰心を大切にして、己に内在する聖霊の力により頼みながら、

真理を理解し、人を愛していけるようになりたいと思う。

 

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